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支え合う「ナナメの力」 | 福祉・地域・イノベーションに見る「たすきがけ」の重要性


 よそから呼ばれるが、地元では呼ばれない

ありがたいことに私は、かつて立ち上げた「いわきの地域包括ケアigoku」というプロジェクトがグッドデザイン2019金賞を受賞したことなどもあって、全国各地に講演などで呼んでいただく機会をたまに頂戴しています。毎回身に余るオファーに恐縮しつつ、お声がけくださった皆様へ感謝しております。ありがとうございます。

一方と言うとおこがましいですが、地元福島県内で呼ばれることはほとんどありません。私が暮らす街には、県外から多くの方が講演会の講師として、またはそれぞれの専門領域のアドバイザーとしてお越しになられています。

私が県外から呼ばれ、地元には県外から多くの方々が来られる。これって他の地域や領域でも見られる何かの現象なんでしょう?私が勝手にそう感じているだけのことでしょうか?

私たちは「地元の外から呼ぶこと」の方が価値があると感じがちなのでしょうか。遠くから来る人の方が、「今ここ」にはない、新しい視点や情報、客観性を持ち、地元の固定観念や閉塞感を打破する力があると期待されるのかでしょうか。私が県外に行き、県外の方が私の街に来る、この「外から呼ぶ」という現象も含め、今回は「ナナメの関係性」やナナメの線が交差する「たすきがけ」のようなつながりや支え合い方について考えていこうと思います。


ナナメに支え合う、THEたすきがけ!



介護・障がいなどの福祉における「ナナメの力」

先述した「いわきの地域包括ケアigoku」を立ち上げた2016年から、介護/医療/福祉といった領域に携わっています。そこで出会ったり、聞いたり、考えたりしたナナメの関係性のいくつかを紹介したいと思います。


介護の現場でのナナメの関係性

多くの介護職の方々からよく聞く話があります。

「自分の親のときにちゃんとケアしたり、看取ったりすることができなかったという後悔がある。介護職というプロの職種としてと、親子という関係性が混ざり合ってしまったからかもしれない。
自分の親に対してちゃんとできなかったという後悔、もう少しやれたんじゃないかという忸怩たる思いが、今、他のご利用者さんやご家族を精一杯ケアしている原動力になっている」



他者のケアを通じて自分自身の経験を補完しているのかもしれませんし、ご本人たちがおっしゃっているように、親への後悔をケアの原動力にしているのかもしれません。いずれにせよ、またその両方にせよ、ナナメの関係性、ナナメの線が太くなっている一例だと私は考えます。

例えば、↓こちらの掲示板に投稿された記事をご覧ください。



認知症の娘さんの話

小学校時代の先生と生徒。先生は歳を重ね認知症になられ、かつての教え子は医師となり、主治医として認知症の恩師に向き合われています。認知症を抱えた先生が、自身の娘さんと教え子だった主治医とともに、日々の思いや胸の内を語り合う鼎談を企画させてもらい、その模様を撮影させてもらいました。


鼎談動画『ふたりの先生』


この動画の中で、娘さんがおっしゃられています。

「娘として認知症の母を支えるけれど、自分一人で頑張りすぎないように意識しました」

ご自身の生活や時間も大切であるため、いとこや友人や母の知り合いに「週に一回でいいから母に会いに来てほしい」と頼んでいます。動画の中でこうもおっしゃっています。

「早めにお手上げだーと言って、あっちにもこっちにも助けを求めたということが、母にとっても、私にとっても、とてもいいこと/いい方法でした」と。


自立と依存

「自立」と「依存」は、一見すると反対の言葉であるように感じます。誰かに頼っている「依存」。誰に頼ることなく、文字通り、自ら立っている「自立」。

でも、東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎先生は、「自立とは”依存先を増やすこと”」だとおっしゃられています。

私は、生後すぐに高熱が出たことなどが原因で脳性麻痺となりました。手足が不自由なため、中学生の頃から車椅子を使っていて、日常生活を送る上では他者の介助が欠かせません。
(中略)
私が依存できる先は親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、一人暮らしをしたことで、友達や社会など、依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。
 「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。

「自立とは「依存先を増やすこと」


認知症の先生と娘さんのケースでも、もし娘さんが「娘の私が頑張って母を支える/支えねばならない」と思い、抱え込んでいたら、先生も娘さんも「自立」からどんどん遠のいてしまっていたのではないでしょうか。


母の友達だけでなく、「いとこ」や自分の友達まで母の話し相手になってもらう。親子としてのタテ、母と母の友達というヨコに加え、いとこや自分の友達という母から見れば「ナナメ」のつながり/支え合い。ここにも「ナナメの関係性」の一つを見ることができます。

そして、この「ナナメの関係性」の創出には、「助けて。手伝って。母と一緒にちょっといてくれない」という娘さんのOPENNESS(開いていること)がポイントだと思います。

抱え込まない。頑張り切らない。

「こうでなければならない/家族が面倒をみなければならない」という「ねばならない」から解き放たれ、周囲の人に「助けて/手伝って」と開いていく。そこから、ナナメの関係性は生まれるし、本人も家族も依存先の矢印が増えて、お互いがよりよく、より自立的になっていくんだと思います。



障がい児の親の永遠の悩み

noteでも何本か文章をアップしていますが、私には自閉症の子が二人います。次男と次女です。よろしければ、↓こちらの投稿をお読みください。



私たち家族も含め、障がいのある子どもを持つ親の多くが、最も心配していることは「自分たち親亡きあとの子どもの生活」だと思います。

2〜3ヶ月に一度ぐらいのペースで、障がいのある子を持つ親や障がい福祉に携わっている知り合いの方たち何人かで、障がいにまつわる「モヤモヤ妄想会議」のような場を開いています。

障がいのある子どもとその親というと「ひとくくり」なイメージがあるかもしれませんが、うちは親である私が40代で子どもたちが小学生、「モヤモヤ妄想会議」に参加している別の方は、ご本人が60代でお子さんが30代といった具合に世代が異なるので、置かれている状況や課題感も少しずつ異なるのですが、それでも突き詰めると、「自分たち親亡きあとの子どものこと」が究極の心配ごと。

世代は異なるが、同じ悩みを抱えるメンバーでの「モヤモヤ妄想会議」で、この「親亡きあと心配」問題、実は親が「子離れ」できていないことに起因してるんじゃないかというポイントに辿り着きました。

障がいがあるために他人や周囲に迷惑をかけるのではないかという恐れや、子どもが傷つくことを避けたいという親心が、外部への開かれの機会やチャレンジによる体験や学びの機会を減らし、結果として子どもの成長や自立、依存先を増やすことを妨げているのではないか。まさに先ほどの認知症におけるケースで言えば、親と子の間に矢印が一本ずつしかない状態です。

子の自立のためには、親が勇気を持って「手を離す」ことが大事。頭ではわかっているのですが、、、心配でなかなか手を離せない。だから、「子どものためだ、我慢しろー」といきなり子離れさせるのではなく、私たち親が子離れの「トレーニング」ができる場や機会があったらいいよねと「モヤモヤ妄想会議」は続きます。

場については、また改めて別に投稿したいと思いますが、機会としては、例えば、AさんがBさんの子と一緒に過ごしてみる、BさんがAさんの子と一緒に過ごしてみるといったことなら、子離れトレーニングとして小さな一歩を踏み出せるかもしれません。

抱えている状況も課題も、そして子離れの先にある子どもの自立≒依存先を増やすという目標も同じもの同士の「ナナメの関係性/たすきがけ」のようなチャレンジと支え合い。互いの家ではなく、それが共に使える、開かれた「場」であれば、もっとその心理的ハードルは下がるかもしれません。


現在、妄想進行中の「場」のイメージ。奥様に描いてもらった。



親子/血縁という「タテ」の強さ/面倒臭さ/呪縛

少し文量を割いて、介護/認知症/障がいと福祉と言われる領域における「ナナメの関係性/たすきがけ」について書いてみましたが、いずれも通底するのは、「親子/血縁というタテの強さや面倒臭さ」かもしれません。

親子や血縁はとても大事なものです。ですが、その大事さ/強さやかけがえのなさが、ときに感情や関係性をこじらせてしまうケースも少なくないんじゃないでしょうか。この大事なタテの関係性が大切でよりよいものであり続けるために、矢印を増やす、その矢印もヨコだけでなく、ナナメの矢印も意識することが重要だと、この福祉のパートを書きながら、改めて思いました。



ネットワークの密度を上げる/イノベーションにも「ナナメのつながり」を

ナナメの関係性は、福祉や介護の現場だけでなく、イノベーションの創出にも重要な役割を果たしているみたいです。例えば、今や当たり前すぎて、無意識に使っている感のある「a.k.a付箋」こと、3Mのポストイット。

ざっくり言うと、ポストイットを閃き、開発した担当者の直属の上司は、「はっ、こんなすぐはがれる粘着力のものになんの価値があんの?商品化なんかあり得ないんですけど」と鬼却下。

別の部署のトップが、「面白いじゃん。ワンチャン、何かありそうじゃん」と可能性を見出してくれて、商品化に漕ぎつけ、今、私たちはありがたみを感じることすらなく、当たり前のものとして日々使っているわけです。



ポストイットの事例に限らず、電話にせよ、Googleにせよ、多くのイノベーションは最初は意味や価値が理解されず、否定されることから始まっています。

イノベーションへとつながったのは、偶然や幸運によるものもあるかもしれませんが、看過できないポイントとして「別の部署の人間や他分野の人々からの支持によって具現化した」といったこと。直属の上司やクライアントというタテがダメでも、別の部署の人が評価してくれたり、面白がってくれたりというナナメによるピックアップやサポート。

また、人と人における「ナナメの関係性」だけでなく、領域と領域におけるナナメもイノベーションに寄与しているみたいです。

例えば、「進化論」で有名なダーウィン。彼は元々は地質学の専門家。地質調査として5年間、「ビーグル号」で世界各地を航海し、地質や化石の調査を行いました。

その地質調査中に、ガラパゴス諸島で同じ鳥なのに、島ごとにくちばしの形が違うことに気づいたそうです。そこから、それぞれの島の環境に適応してくちばしが異なっているのではないかと考え、環境が生物の進化に影響を与えているという進化論の核心的な考え方に至ったそうです。

「地質学」×「生物学」という領域と領域のかけ算。異なるもの同士の組み合わせや出会いからイノベーションが生まれるとするならば、人と人との関係性だけでなく、領域と領域、アイデアや視点というものにおいてもナナメの関係性は、ワークするのかもしれません。


KIITOの「風の人」

デザイン・クリエイティブセンター神戸(愛称:KIITO/キイト)が提唱する「風の人」という概念も、ナナメの関係性が持つ価値や力と関係があるかなぁと思います。

KIITO開設以来、活動の基本理念として掲げているのが「風、水、土、そして種の話」。この基本理念は、地域活動やまちづくり活動の支援を行う際に「三つの立場」(風、水、土)が必要であり、それぞれの立場が担うべき役割があり、地域の人たちがお互い仲良く、生き生き暮らす元気なまちになるプロセスにおいては、「強度のある活動(強い種)」が必要になるという考え。(中略)

「風」の役割は、乾いた「土」で芽が出なくなった古い「種」を品種改良して強い「種」にして、風に乗せていろんな地域に紹介しに行くこと。つまり、その地域に住んでいない外にいる企画の専門家。この強い種をつくれる存在を、今まさに社会は求めている。日本のあらゆる地域が「風の人」欠乏症であり、強い「種」を切望している。

『やっかいな問題はみんなで解く』より



冒頭で書いた、地元では呼ばれないが、よそからは呼ばれるという話も、この「風」の人としての役割を期待されてのことかもしれません。だもの、地元で呼ばれることがないのも納得です。そこで暮らしている私は、地元では「風」の人ではなく、「土」や「水」の人だからです。

少し話がそれますが、「風」の人、「土」の人、「水」の人というのは、固定的なものではないのかもです。場や立ち位置に応じて変わりうるのではないでしょうか。

去年まで2年間、町内会の役員をさせていただきました。住民として&町内会の役員としての私は「土」の人ですし、仕事は公務員ですので「水」の人でもあるし、講演などの機会で他の地域に呼ばれる際は「風」の人としての役割が求められているんだと思います。


外部への開かれ/越境/クロスオーバー

話を戻します。
タテ・ヨコだけでなく「ナナメ」の関係性やつながりを。
土・水・種に「風」を。

共通するのは、「外部への開かれ」「越境」「クロスオーバー」的なニュアンスでしょうか。

意識して能動的に開かれるのか、たまたま偶然に開かれてしまい受け止めてしまったのか、能動/受動はケースによって様々あると思いますが、閉鎖性が外に開かれ、異なる分野/領域や他者へ自分が越境したり、「風」の人に自分たちの地域や領域、組織へ越境して来てもらったりして、出会いやつながりから相互作用や新たな組み合わせ/効果が生まれていく。

ここまで長々と書いてきた「ナナメの関係性」には、どうやらこんな力や効果がありそうです。そして、「風」の人と合わせて考えてみることで、「ナナメの関係性」の解像度が上がったと言いますか、3つのステップがありそうな気がしてきました。

①外部に開かれる/外部を受け入れる
②越境しに行ったり、越境しに来てもらったり「越境」が起きる
③越境による出会いやつながりから、新たな組み合わせや相互作用、効果が生まれる(かも)



開き、つながるのみ


認知症や障がいにおいては、「家族が面倒をみなければいけない」という「ねばならない」の呪縛の強さから、抱え込み、閉鎖的になりがちだけど、「助けて/手伝って」と言い合い、開いていくことが、依存先を増やし、結果、自立につながるのではないかと、いくつかのケースから辿り着きました。

組織やビジネス、イノベーションにおいても、「上司やクライアント⇄部下」や「専門領域」というタテ&閉鎖的な関係だけでなく、他部署/他領域とのネットワークやかけ算が、発明/発見/イノベーションの創出など業績に大きくワークするということを、有名な事例から学びました。

日々の暮らしやまちづくりにおいても、KIITOの「風」の人の話から、その地域の外からの視点や刺激、出会いや相互作用の大事さ、そしてそれがこの国には足りていないということを知りました。

介護や障がいのこと、親子の関係性、ビジネスや組織、日々の暮らしや街づくりと一見すると全く別々のこれらにおいて、結局、大事なのは「ナナメの関係性」であり、その関係性を生み出すのに必要なのは、開き→越境しあい→出会い、繋がり→相互作用のナニカが生まれるかもということ。

住み慣れ/付き合い慣れ、刺激の少ない、コンフォートゾーンから一歩踏み出し、「他者」と出会い、言葉を交わし、向き合い、付き合うとも言い換えれるかもしれません。


『THE GOOD LIFE』と幸せ研究

今年、『THE GOOD LIFE』という本と出会うことができました。個人的には、深い学びと気づきを得ることができた衝撃作でした。



書籍画像にも書いてあるとおり、ハーバード大学が84年にわたって、同じ対象者を追いかけ続けて「幸せとは何か」についての調査研究を一冊の本にまとめたもの。

調査の概要は、↓こちらのスライドにまとめてみました。



現在も継続中の調査研究ですが、ある一定の研究結果が本書の中では示されています。ハーバード大学2年生も、同じ地域の最貧困地区に暮らしていた同年代の若者も、その知能や学歴や環境は、その後の人生の「幸せ」に大きな影響は与えていなかったのです。

高い学歴の方が、よりよい職業、より収入の高い職業に就ける選択肢や可能性があり、より幸せになりそうに思ってしまいますが、同じ人たちを85年にわたって追い続ける縦断研究は、学歴や環境よりもっと幸せにとって大事なものを明らかにしています。

それは、「よい人間関係」



親子/パートナー/職場など、さまざまな関係性の中で、よい人間関係を持つこと。それが、幸せや健康にとって最も大事なものであると本書は結論付けています。

よい人間関係とは、自分ひとりでは成り立ちません。相手がいます。自分が誰かといい人間関係を築けていると感じる場合は、おそらく相手も同じように感じている場合が多いんじゃないかな。

とすれば、私やあなたは、まずは自分の健康や幸せのために、できるだけいい人間関係を築こうと意識しましょう。ちゃんと挨拶したり、相手の話に耳を傾けたり。

自分がいい人間関係が築ければ、まず自分がより健康的かつより幸せになります。

相手も、私やあなたといい人間関係が持てたと感じれば、相手もより健康的かつより幸せになります。

いい人間関係を築ける人数が多ければ多いほど、健康で幸せになる人も多くなる。
それが職場で起きれば、職場や組織が、
家の近くで起きれば、隣近所が、地域が、コミュニティが健康で幸せに包まれていくことになるのではないでしょうか。




一本でも多くのナナメの線を

長々と書いてきました。ここまでお読みくださった皆さん、ありがとうございます。最後のまとめの部分にやってきましたが、実は迷子になっています。どう締めればいいか、さっぱりわかりません。

というように、自分の書いた文章や自分の仕事というのは、なかなか客観視するのって難しくないですか。

そんな時に、上司や親といったタテに意見を伺うのはピリッとするし、同僚や友人というヨコに聞くのも意識してしまうかも。で、ナナメです。もし自分の書いた文章を、自分の取り組んでいる仕事を、別の部署や別の会社、別の職種の誰かが見ていてくれたり、声をかけてくれたり、意見をしてくれたら、素直に耳を傾けられるし、評価やアドバイスも素直に受け入れられると思います、俺は。

だから、自分が自分とは全然関係のない部署や組織や職種の方のチャレンジを見かけたら、「俺は関係ないから」とか「部外者だから」と思わずに、勇気を出して、声をかけていこうと思います。チャレンジを讃えていこうと思います。

そうして、ナナメの線が増えていき、「たすきがけ」が生まれ、「開かれ」、暮らしやすくなり、イノベーションも生まれる。さらにはよりよい人間関係につながり、みんながより健康的でより幸せになっていくんだと信じて。

親子や家族といったかけがえがないゆえに、面倒なことになりがちなタテ。友人や同僚といった大事なヨコ。このタテとヨコをよりよいものにするために、直接的ではなく、柔軟で、多様で補完的な「ナナメ」の線を意識していく。

「8050」問題をはじめ、タテがどんどん少なく濃く、それがゆえにこじれがちになっていく中にあって、また、人口減少/少子高齢化により、ヒト/モノ/カネのリソースがどんどん乏しくなっていく日本において、よりよくつながること、そして「ナナメの関係性」の線を増やし、太くしていくことに、大きな可能性と力を感じています。

どうでしょう、互いに「ナナメの関係性」を意識していきませんか。




お読みいただきありがとうございました。
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