透明感の高い日差し
穏やかな午前中の日差しの中、身体ちゃんに先導されるまま動いたり緩んだりしていたら、「それ」を言語化できた、かもしれない。いや、できていない。でも、1ナノメートル近づいた。
数日前に「ない言葉」によって指し示されるものについて書きましたが、いがらっしが掴みたいもの、共有したいものは、ダンスを通してでも、文章を通してでも、「それ」以外にないのです。だから、
身体と私の関係をフロアのうえで晒したい。
その関係性によって指し示することができるような予感がする。
ダンスの技術や美しい身体を見せたいのではありません。高く跳ぶ、高く足を上げる技術や若くすらっとした身体を見せたいわけでもありません。どちらももともとありませんけれど、あったとしても、それを見せたいわけではないのです。(あったら見せたくなるのかしら。)
晒したいのは関係性。
だから、私が寝たきりになっても、しわくちゃになっても、指先が動けば、それを認識できる自分があれば――もしかしたら、見てくださる人間がいなくても――願いはかなうのかもしれません。
でも、だからこそ、逆説的なのですが、異常に個人的な欲求を晒そうとしているからこそ、技術も構成力もすべて磨かないといけないのだと思います。見てくださる方の生きている時間が無駄にならないように!
先日、私のダンスを見てくださったお客様から「やっているのは自己表現ではないですよね?」という素晴らしいコメントをいただきました。ありがたいという言葉を超えて「成就」とでも言いたい。「捨身」でもいいかもしれない。言葉をいただいて嬉しかった気持ちと、私が指し示したいものへの思いが綯い交ぜになって天手古舞します。
なんででしょう。日向ぼっこしながら、書くと、句読点が多くなります。
以前、晴れておだやかな、透明感の高い午後に、まるで法悦と呼ばれるような空間に入ってしまいやすい時期があったのですが、(今はほぼないです、)人間はいとも簡単に温度や湿度や明るさに影響されるのかもしれません。私たちはセンサーです。
蛇足:このアカウントは日経新聞による「天職だと感じた瞬間」というお題に参加しています。ここに書いた内容は私にとっては天職以外の何物でもないと思うのですが、お題の文脈にどう見てもそぐわないところが、私が格闘している(そしておそらく多くの人が格闘しているであろう)高度に制度化された社会で生身の身体をもって生きることの難しさだと思います。