時間の経ち方への違和感
「時間の経ち方がなんだか変だ」といろんなところでつぶやいていたら、姉上がお勧めしてきた記事。
精神科医の斎藤環さんによるもの。
全体を通じて少々難解だけど、この部分は特に腑に落ちた。
「出来事の前後関係や距離感、いわば記憶のパースペクティブがどうもおかしい。フワフワして手応えがなく、のっぺりとして立体感がない。サイクルはあるがリズムがない。」
(記憶のパースベクティブ……かっこいい……どこかで使おう)
いやぁ、ほんとそれ。
言語化してくれていた人がいた。
そんな時間の変質は、現実感の喪失と意識の狭窄につながりかねないこと。
その回復の手立てとして、主観的時間と「内向きの不要不急」の充実に触れる。
SNS上で見かける記事に、反射的に動揺したり、嫉妬心まで沸き起こった時は、さすがに「あれ、自分どうした?」「見るべきはそこじゃない」と自分をなだめるようなこともあった。
「意識の狭窄」はなんとなく感じていて、その状態を放っておくと呼吸まで浅くなる気がして、最近はバランスをとるために、意識的に深呼吸したり身体を動かすようにしている。
「Web飲み」にも何度か参加しては、愚痴を聞いたり聞いてもらったりして、気分転換はしていたつもりだった。そしてちょっと前のツイッターで、「ただリラックスして、他愛ないことを喋りたい時ってあるよねぇ」と呟いていた。「Web飲み」とは、ちょっと違うイメージで。
同じ記事でこんな下りがあった。
「映画を観る、漫画を読む、長編小説に挑む(フィクションには無数の時間線が埋め込まれている)。頼まれてもいない文章をnoteに書く。ヒヨコを飼い、シイタケを栽培し、プラモデルを作る。そして、それらのことについて、可能な限り対話(おしゃべり)すること。」
そうか。結局そういうことだよね。
ヒヨコ飼育やシイタケ栽培はできそうにないけど、何気ない対話の積み重ねがやはり、決定的に不足している。
結論や目標を要求されないオンラインおしゃべり(ツイキャスもそうか)を楽しみにしているのは、そういうワケなのか、とも。
まだしばらく続く東京の緊急事態宣言下において、誰とどんな対話を結び直すか。「内向きの不要不急」をどう充実させていくか。コロナ禍をヘルシーにサバイバルするには、そこがポイントになりそうだ。
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