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地上の浄土と信仰のような何か-五月、Plastic Tree『doorAdore』東京公演を観に行った[1]
仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになるが、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たない。
(Wikipediaより引用)
宗教の中では仏教が好きだ。
どのような信仰も宗教も思想も、誰かに迷惑をかけるような事さえなければ自由に尊重されるのが真の民主主義なのだろうと思うので、他の宗教と比べるような事は決してしないが、押し付けがましい教義もなく一部のお坊さんぐらいしか厳しい戒律に縛られる事もなく、すべての希望を来世へ丸投げしている感じが最高にコンフォータブルで素敵だ。
仏教における信仰は帰依と表現され、他宗教の信仰とは意義が異なっており、たとえば修行者が守るべき戒律を保つために神や霊的な存在との契約をするという考えも存在しない。
(Wikipediaより引用)
存在するのか否かもよくわからないような信仰対象と証も残らないような「お約束」を交わすような事もせず、ただ自分の魂をより良いものにしようと言う気持ちだけで成り立っている感じも好きだ。
とは言え、僕は多分無宗教なのだろうと思う。
普段日常生活を送っていて敢えて宗教について考えるような事もまずないし、そしておそらく日本の大半のひと達は僕と同じだ。一年のうちに新年の初詣とクリスマスとハロウィーンと盂蘭盆会を喜んでお祝いしまくるようなお国柄はそうそう他にいないだろうし、別に大して悪い事でもないだろうと思うし。
でも多分、結構な確率で、そんな無宗教で一歩踏み外せば罰当たりな日本人も、心の何処かで「美しい何か」を、信仰している。
多分これも、僕だけじゃないと思う。
母親と同居のイイ歳したひとりっ子にとって、母の日はなかなか居心地のよろしくないイベントだ。
別居してれば「アンタが元気な顔を見せてくれればそれが一番のプレゼントだよ……!」「母ちゃん……!!」的展開が期待出来るし、小さな子供のうちならカーネーション一輪でもきっとママの日々の頑張りは報われるだろうと思う。
でも実際には、僕は既に四半世紀以上生きながらえてしまい、尚且つ銀座の高級寿司をオカンのお節介な口に突っ込んで黙らせてしまう事すら叶わない収入のままズルズルと実家に居座り続けているしがない派遣社員だ。
別にオカンから無言の圧力を感じたとか言う事は一度たりともないし、多分オカン自身に罪はまったくない。母は、たとえ僕が「給料日前だからもうちょい待って!給料日過ぎたら寿司(無論回るやつ)奢るから……」と言ったところで「アンタが元気で以下略」な言葉を返してくれるタイプだと思う。誰に罪があるかと問えば、勝手に「子の責任」を抱え込んで肩身を狭くしている僕自身に所在するのでしょう。
実際、今年の母の日は給料日前だったので先の言い訳を行使させてもらった。お天気もあまりよろしくなかったし、入院中の父親の所へ着替えを持って行ったりもしないといけない。普段と変わらない特に何もない日曜日を過ごしながらも、流石に何もしないのは忍びねえと食事は三食僕が作る事にした。
チャーハンに入れるレタスを千切りながら、ほんのりとした居心地の悪さから尻尾を巻いて逃避するように、僕は特に脈絡もなく自分の信仰について考え始めた。
ロックバンドを信仰している。
と言うと、ちょっとやばいやつな感じがするが、僕の彼等への想いを適切に表現しうる言い回しは他にないっぽい。
絶対神的な信仰ではなく、多神教、大乗仏教のような信仰スタイル。日々「生きる」と言う単純作業が苦行にしか思えない時、彼等を想うと少しだけ心が晴れた。
己の信じる美学や哲学を手に、それを音楽と言う作品に結実させ、それだけでご飯を食べているギリギリの勝ち組。水商売とはよく言ったもので、上手くいかなければすべてが水の泡と化すような不安定な生業を敢えて選び、それで見事成功しているひと達が確かにこの世にはいる。
彼等は太陽や月のように眩くきらきらと輝き、ジメッとした畳のヘリに自生する僕をすくすくと育てた。
他にも絵描きや物書きなんかにも憧れはあるし(自分も実際志したのは物書きだった)、同じく眩しい存在ではあるのだけれど、ロックバンド(及びバンドマン)に対する程の信仰心は芽生えなかった、気がする。
彼等は基本素行があまりよろしくないし、油断すると平気でこちらの信頼を裏切ってくる。でもそれはそれ、彼等の人生は僕達ファンのためのものではなく彼等自身のものだし、「良い音楽をやる」と言う絶対的な芯があるのでそこさえ裏切らないでいてくれればいつまでだって信仰し続けられるのだ。
僕はロックバンドに絶対服従しないし、僕とバンドマンの間には確信出来る約束も何もない。僕は勝手に彼等の作る音楽や彼等の生き様に憧れ、支えられ、彼等と言う存在に勝手に救われて勝手に生きる。
僕がロックバンドへの信仰に気がついたきっかけは、Plastic Treeとの出会いだった。
プラとの出会いは大学一年生の頃。中学からの付き合いである友人がカラオケで歌っていた曲の歌詞が凄く良いなあ、と思いネット検索した。Plastic Treeの『コンセント。』。関連動画で流れてきた『リプレイ』を聴いて涙が止まらなくなった。
それまでも椿屋四重奏の『嵐が丘』が好きだったり、まともに異性と交際もした事ないのに『トワ』を聴いて泣いたりしていた僕だったけれど、あんなに目ん玉まろび出そうな程泣いたのは『リプレイ』が初めてだった。
僕は未だにオメーさてはろくな恋愛してないなー?と言う感じの詞を書くバンドマンが好きなのだけれど、ボーカルの有村さんは最早恋愛どころか、人生観が不安になる程もの悲しく切ない物語ばかりを歌っている。
いわゆるメンヘラっぽいわけではない。あの色白でお人形のように整っていてその割に一重まぶたの薄幸なかんばせには何処となく不穏な雰囲気を覚えるけれど(しかも御歳四十ウン歳にしてそのルックスをキープし続けているのだから、メンヘラ通り越して魔界のひとである)、彼の書く歌詞にはよくあるヴィジュアル系の曲的(偏見)な「黄昏の街角に蘇りし漆黒の天使達†††」「己が心臓を悪魔に捧げよ†††」みたいなやつはあんまり出てこない。(言うて『睡眠薬』って曲あるし、無論丘には登るけれども。)
詳しく書くと長くなりすぎてウザイし議題から逸れるので申し訳ないけれど、ここではいささか抽象的な説明しかせずに各自ググれやとしか言わない事にする。
有村さんが歌詞の中に描き出す悲しみや切なさはとてもリアルで、肉体の痛みや怠さを伴い、死の境を彷徨ったり、大事なひととの永遠の別れを幼少の砌に経験して強いトラウマを抱えたり、更にそれを然るべき手順で乗り越えて人生の大切な宝物にまで昇華したりと言ったなかなかのご経験がおありとしか思えない程に痛々しく、そして同時に同量の清々しさすら孕んでいる。
僕は彼の書く生命の儚さと力強さの結晶のような歌詞に震え、ウィスパーボイスの色香に骨抜きにされ、当時既に平均年齢四十デコボコだったメンバーの、おじさん達舞台の上で死ぬつもりなんじゃないかってぐらいパワフルな鬼気迫るパフォーマンスに呆然となった。
僕がプラを好きな一番の理由は、彼等が軽率に「絶望」や「自死」みたいな事を歌おうとしないところだったりする。
これも完全に偏見だけれど、ヴィジュアル系バンドってすぐ絶望するしすぐ手首切ったりクスリ飲んで死んじゃうイメージがある。実際そうじゃないバンドも沢山いるし好きなヴィジュアル系もいるけれど、中途半端なリアリストの僕としては、そんなすぐ心中出来たら苦労しないんだよ〜明治の文豪かよ〜って思ってしまう。
これは結局僕の性格や思想の影響が多分に出ていると思うのだけれど、ニンゲンと言う存在はそうそう死ねないもんだと思っている。生きたくなくても生きなければいけない、生きざるを得ないひとは割と多い。
休日に母親と一緒にいると、大体の場合僕の小さかった頃の話をし始める。可愛かった頃の僕の話、身体が弱くて(今もだが)病院通いだった頃の話。
僕は当時小児喘息持ちで、発作を起こすと昼夜を問わず立っているのもやっとなぐらいの勢いで咳き込み続けてしまっていた。小学校の高学年までひどい発作に苦しめられていた僕を、母は僕が小三になるまで担いで病院まで連れて行ってくれた。
「アンタを背負って病院まで行ってた時、腰痛めて足も上がらなかったのよ」
いつもの呑気な笑顔でどうって事もないようにサラッとそう言われる度、僕はその言葉の裏に「アンタのせいで私は自己犠牲を払いながら身体を傷めつけて生きなければいけなくなったのよ」と言われているような気がしてつらくなる。(多分あのオカンにはそんな意図は微塵もないんだろうけれど!)
働き者の母に無理ばかりさせ続けた事、父親が働かない事、何かとストレスを感じやすく心身共にか弱い事、性自認の事。
苦労、と言ってはおこがましいだろうが、そう言う自分の「面白おかしく人生を生きられない」部分の多さに辟易して、「僕は前世では極悪人だったのだ」と思うようになったのが大学に入る頃。奇しくもプラと出会った頃だった。
この思い込みと言うか思想と言うかだけは、ちょっとキリスト教的だと思う。いわば原罪意識のようなもの、だ。
元々自己肯定感が著しく低かったので、それも影響したのだろう。
そんな性格なので死にたくなる事しばしばなのだけれど、親の生活の面倒を見ないといけないだとか、死に損ねて後遺症残ったりする方がこわいなあだとか、なんだかんだ言い訳をつけて今まで生きながらえてしまった。結局現実はこんなもんで、相当追い詰められない限りビルから飛び降りるのも、クスリを煽るのも、真っ白な百合の花に埋もれて美しく死ぬのもそう簡単には行動に移せないもんなんじゃないかと思う。
生きたくなくても生きちゃう、絶望する程不幸ではない(と思う)けれど死にたがりの僕に、プラは優しく寄り添い、救いになってくれたのだ。
八方塞がり人生まっしぐらの僕に、プラは結論を求めなかった。希死念慮を性急に掻き立てるでもなく、この世は幸せに溢れていると綺麗事を歌うでもない。悲しみもやるせなさも、すべてありのままを飲み込んでくれたのだ。
プラはメンバー全員が作詞作曲をする。圧倒的フロントマンである有村さんだけでなく、他に三人も天才がいて、互いが互いの才能を認め合い、作品を生み出している。これはロックバンドと言う存在にとって当たり前で、尚且つ理想的である姿だ。
ロックバンドにとって、と言うのもいささか正しくないかもしれない。僕の目には、自分自身にも相応の力量があるにも関わらず共に何かを作り出している仲間の才能を誰よりも「好きだ」と言える彼等の関係性が、ひととひととの繋がりの形として最高に美しいもののように見えたのだ。
つまり、Plastic Treeと言うバンドはロックバンドとして、存在として完璧だったのだ。少なくとも僕にとっては。僕は彼等に、ロックバンドと言う存在の美しさを改めて思い知らされた。
僕は今世で徳を積みたいと思っている。前世で極悪非道の極みを極めた僕も、せめて今世で清貧に生きられれば来世ではニューエラのキャップがよく似合うインテリ細マッチョのイケメンになれるかもしれない。
それでも尽きない救いようのない悩みや欲望を爆裂霧散させる程の感動を与えてくれるロックバンドを、僕は間違いなく信仰しているのだ、と思う。
([2]へ続く!→地上の浄土と信仰のような何か[2])
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