英語教育は手段の目的化か? vol.537
こんなことを書いてしまうと全国の英語の教員にタコ殴りにされてしまうかもしれません。
都立の高校入試では英語のスピーキングテストが始まりました。
英語の文法もそうですが、英語教育というのは非常に目的を見つけづらい科目だと思います。
今日はそんな英語教育について考えていきます。
なぜ、英語教育が必修科目として設置されているのか
もともとは、グローバル社会に対応しうる人材の育成として設置された英語という科目。
確かに当時の科学技術の発展もまだ十分ではないグローバル化変動期であれば、個々に英語能力を身に着けるというのに意味があったのかもしれません。
しかし、私自身もそうなのですが、英語が苦手という人物からすればいいお世話なのです(笑)。
使いたければ勉強するし、将来絶対に使わないからいらないと思ってしまいます。
私は英語が苦手すぎるあまり、入試科目に英語がない科目を選んだくらい。
苦手科目があるからと言った理由で進路選択をするなとは言いますが、正直それはきれいごとのようにも感じてしまいます笑。
理系人間からすれば、翻訳機の開発を待ち望むばかりです。
手段の目的化か?
そもそも英語を学んで何になるのか、その意味はあるのかを考えてみましょう。
英語を習ったところで、結局のところ英語は語学。
何かを伝える、受け取るの動作がなければ全くもって機能しません。
そもそものコミュニケーションに難があれば、学んだところで有用感を得られにくいのです。
現代の私たちの友情関係はどんな形でしょうか?
例え、仲が良く数人グループで一緒にいようとも、そんな学生集団を電車とかで見ると、互いに話すというよりかは、それぞれがそれぞれでスマホをいじっている、そんな光景を見るのではないでしょうか。
コミュニケーションの形が変わり、話すが主流ではなくなった今、英語を学んだところでますます使わない、そもそもの母国語でのコミュニケーション文化が変化している、そういった問題があるのではないでしょうか。
何のために学ぶのか?
私が英語を学ぶ意味を問われた時にいつも答えるのは、自国の文化を理解するためと話しています。
英語を使い話す時、まず最初に訪れるのが自分の話をしたり、共通項を見つけると言ったことでしょう。
そうなった時、自分のことはもちろん、自分の生まれた場所、文化、風土、これらを知らない限りは話すことも話せません。
だからこそ、英語を使うために学ぶというのは、自分と自分の環境を理解することにつながるのだと思います。
ある本によれば、日本の英語学習はそもそも手段の学習になっていると論じているものもあります。
本来であればコミュニケーションのためのツールであった無形の言語にルールを与え、理解しやすいようにしたのが文法。
そのルールのみを覚え、結局のところ使える英語は全くもって習得できてない日本の英語学習。
いま一度あり方を考えるべきなのかもしれません。
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