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恥ずかしいまま生きることにした

『人間失格』の話じゃありませんが、この間、うちのクラスの二年生の女の子と話していて、びっくりしたことがあります。

それはわたしが日直だった日のこと。(担任なのに日直がまわってきます)

日直さんは朝の会で、お誕生日にもらった自分の詩(うた)を歌うことになっていて、わたしはその日、子どもたちにもらった二篇の詩を歌いました。

ひとつは自分のクラスの子たちが考えてくれた詩、もう一つは6〜7年生クラスの子たちが考えてくれた詩です。

朝の会が終わり、授業も終わり。さ、のんびりしようかな〜と思っていたところへ、ある子がふと朝のうたを口ずさみながら、

「わたし、先生のうただったら大きい子たちが考えてくれたやつのほうが好きだな〜」

と言いだしました。なんで?

「自分たちが考えたやつは、聴いてるとちょっと恥ずかしくなってくるから・・・」

「え!全然かわいいうたじゃん!でも、わたしも自分があげた詩を聴くときはいつも恥ずかしくなるな〜。わかるわかる。」

こんなやりとりをしました。

贈る側の懊悩をわかってくれたっぽくてちょっとうれしい+こんな小さな子にも「自分の作品は恥ずかしい」って感覚があるんだな〜!と意外に思いました。

人はもう恥ずかしくなることからは逃れられないのかもしれません。

じゃあもう「自分って恥ずかしいものだ」と受け入れてしまった上で、うまく付き合っていこうかな!!

ここから先は「恥ずかしいまま」発表しつづける仲間に向けて、わたしはこうやって乗り切ってますよという話をつづけていきます。


次回作を発表しつづける

恥ずかしいやつをさっさと忘れてもらうためにも次回作で挽回しよう!と考えることにしました。最新作が恥ずかしけりゃ、また作ればいいんです。

そうして、いつまでもいつまでも作りつづけていく。そのうちいつかなんとも思わなくなる日(もしくは寿命)がきたらいいな〜。

あまり自分に過度な期待を寄せず、たまにいいのがつくれたらラッキー!のつもりで今はとにかく場数を踏んでいきます。

勝手に他人を悪者にしない

「恥ずかしい」の感覚をもう少し丁寧にみていくと、具体的な誰かを想像して「いま変だと思われたっぽい」とか「こういうの、あの人の趣味には合わないだろうな」とか、勝手な被害妄想を繰り広げていることに気付きました。

よく考えたら実際に言われたわけでもないのにね。

これって、相手を信じてないってことだなぁ。そして、まだ何もされてないうちから勝手に人を悪く扱うなんて失礼な話だ!

怖い怖い言いながら逆に人を傷つけていたのかもしれないと反省しました。

自分のもの→みんなのものに変えていく

基本的に自分がつくったもの(詩)は全部恥ずかしいんですが、先日めずらしく「あ、恥ずかしくない」と思えたことがありました。

学期末の発表会で、子どもたちが自分の「お誕生日の詩」をうたったときのことです。

(なかなか印象的な出来事だったので、インスタにも投稿しました)

このときなぜ恥ずかしくなかったかを考えてみると、

①もう一人の先生が曲をつけてくれたから
②一年間みんなで歌いこんできて愛着があるから

つまり、「自分がつくった」という感覚が薄れて「みんなのもの」という感じがしたからです。

これはたぶん詩に限らなくてもそうですね。公開したら、誰かに渡したら、もう自分だけのものではなくなります。(って余計緊張するわ!)

詩や歌だったらプレイヤー次第で、絵だったら飾り方・魅せ方次第で、服だったら着る人次第で、印象はいかようにも転んでいく。

自分の手から離れたその先まで印象を操作することなんて不可能だから、あとは受け手に委ねてのほほんとするしかないですね。

操作できないことを悩んでもしかたがないと思いました。

人と生きることに置き換えてもいい

書いていて気付きましたが、これは作品をつくることだけではなくて、社会で生きることとも重なりますね。

《次回作を発表つづける》  《相手・出来事に向き合いつづける》

《勝手に他人を悪者にしない》  そのまま

《自分のもの→みんなのものに変えていく》 → 《対話をかさねて一緒に答えをつくりあげていく》《一人でなんとかしようとせず助けを借りる》

わたしは挫折を感じたり、人間関係に疲れたりすると「ふわっと消えたくなる」衝動を持つほうですが、きちんと向き合いつづけることで場や関係性を更新していけると考えれば少し気が楽になりました。

とりあえず命だけあれば!

これからも休み休み、のほほんと次回作をつくりつづけたいです。

サポートしていただけたら、毛糸を買って何か編みます☆彡