【創作】「貴方に声を掛けたくて」
(これまで、「吃音症で障害者手帳を取得することを決意するまでの記録」と題し、①から④まで投稿してきました。
今回の投稿は創作ですが、前半部分は「【いじめ】吃音症で障害者手帳を取得することを決意するまでの記録①(10歳)」及び「【不登校】吃音症で障害者手帳を取得することを決意するまでの記録②(10~15歳)」と重なる文章が多めです(多少の改編あり)。
後半部分は新たに書いた部分となります。
それでは。)
タイトル「貴方に声を掛けたくて」
始まりの記憶は朧げだ。
後に両親から聞いた話によると、保育園の頃から少しずつ吃り始め、小学校へ入ると、担任の先生からもその旨の報告を受けていたそうだが、本人はいたって楽しく登校していた。
本人が持つ一番遠い記憶は、小学校5年生の春、運動会の演目「組体操」の練習での一コマである。
A型が多い家系に生まれたせいであろうか、性格はバカが付くほど真面目だったように思う。先輩である6年生の足を引っ張らないように、と先生が吹く笛の合図に合わせてとにかく必死に身体を動かしていた記憶がある。
曲は中孝介の「花」だった。
曲の終わりに合わせて長い笛がピーっと鳴る。決めポーズの場面だ。
私は、立ち位置が間違っていた男子同級生に「T君はこっちだよ。」と言った。
言ったつもりだった。
しかし、実際に口から出てきた言葉は、以下の異様な音であった。
「っ!った!っ〇〇くん、、、、、こここここっっっち!!」
すぐに何かがおかしいことには気が付いた。
しかし、時間は止まらないし、口も止まらない。
とにかく息が苦しいのだ。
息ができなくて頭に血が上る。
息が苦しいのを何とかしようと、必死に次の言葉を繰り出そうとしたが、自分の意のとおりに音が出ない。
喉を何かが邪魔しているような感覚が猛烈に襲い、慌てて首を掻いたが効果はなかった。
顔全体に燃えるような熱さを感じる。
恥ずかしさとこれから起こるであろうことへの恐怖を予感し、目蓋の縁に涙が浮かんでくる。
あぁ、終わったな、と思った。
小学生というのは、とてつもなく世界が狭い。
そのため、こういった小さなミスが命取りになるかもしれない、ということはそれまでの小学校生活で多少なりとも学んでいた。
小学生とは、残酷で酷いことができてしまう生き物なのだ。
数秒が経ったのだろう、
すぐにT君なる同級生の隣にいた男子が、「変なの(笑)」と呟いた。
それを皮切りに、まさに花が広がるように円形の立ち位置に笑いが起こった。
「なに今の(笑)」
「たーたーたーだってぇ(笑)」
「そんな必死?」
「いみわかんな~」
「ね(笑)」
それから、授業が終わるまでの記憶は全く無い。
しかし、その瞬間のことは、一生忘れられない。
断言しても良いが、その時周囲にいた同級生たちは絶対にこの出来事を覚えてはいないだろう。
しかし、私の心は傷付き、以後、いじめの対象となる一連の流れのきっかけとなった出来事であることに間違いはなかった。
その日の給食の時間のことである。
小学校の給食当番は、外側に児童の名前、内側に担当が書かれた手作りの円グラフを毎日少しずつ回して、順繰りに役割を担う、という制度だった。
牛乳やご飯など重たいものは二人で担当し、茶碗やお箸などは一人で担当する。
給食当番となっている者は、自分の担当のものを給食室に取りに行き、教室へ戻ると、大皿からクラス人数分の小皿に取り分けるのだ。
その日、私はご飯の担当となっており、もう一人の担当であるS君と、給食室から教室までご飯を運ぶはずだった。
しかし、その日S君は給食室に現れなかった。
何となく察しはついていた。
S君は、先ほどの体育の時間、笑いの渦の中にいたうちの一人であった。
私は諦め、一人でご飯を運ぶ決意をし(かなり重たいのだ)、給食室から教室に向かって運び始めた。
すると2階へ昇る途中、踊り場の隅でS君を含む同級生の男子数人がたむろっていた。
私が無視して通り過ぎようとすると、
「あーあーあー(笑)」
「たーたーたー(笑)」
「おい、きもいって(笑)」
「おまえこそ(笑)」
「近づいたらウツルって」
わざとだ。
わざと、聞こえるようにやっているのだ。
陰湿だ。
ご飯を持っているため、逃げ場などない。
すぐに涙が目蓋の縁まで溢れてきたが、溢すまいとぐっと堪えた。
泣いてしまったら、向こう方にとっての手札が増えるだけであることは、目に見えていた。
なんとか階段を昇り、教室へ入ろうとする直前で、持っていたご飯をS君に奪われた。
素晴らしいアイディアだ。
それによって、S君は「サボりではなくなった」のだ。
先生の見えるところでだけ、活躍するのが小学生の出世術、といったところだろうか。
さらにそこでワンポイント。
S君は、私からご飯を奪う際、なるべく私が持っていた部分に触らないようにして、ご飯を持ったのだ。
「ウツル」というわけだ。
その日を境に、色々なことが起こるようになった。
廊下の角では、数人がニヤニヤとこちらを見ながら、ヒソヒソ声でなにかを話している。
恐らく「キモイ」であるとか、「いみふ」であるとか、そういった会話であるのだろうが、正確には聞こえないような音量で言われているため、どうすることもできない。
帰宅部の小学生には、逃げる場所がなかった。
そして、先にも書いたとおり、小学生の世界は狭い。
とてつもなく、狭い。
学校の同級生は、「習い事」にも登場するのである。
習い事でも同じようなことが始まった。
両方に在籍するO君は、私のことが心底嫌いなようだった。
理由は、様々であろう。
小学生特有の「なんとなく他人にイライラする感情」を、分かりやすく吃る得体の知れない私に向けていたのかもしれない。
自覚してからの悪化のスピードは、異常なほど早かった。
症状も、周囲の反応も。
まず、授業が本当に辛かった。
挙げればキリがないのだが、
国語の授業で順番に立って音読する場面では、10人以上前から自分が読む箇所を確認し、心の中で音読を試み、吃るかどうかを確認し、一喜一憂する。
試みの結果、ダメだ、言えない、と分かっていても順番は周ってくるし、音読が免除されるわけでもない。
「音読」というワードを先生が発した瞬間から、授業が終わり30分以上経過するまで、私の心臓は早くなり、耳の中がバクバクという緊張の音でいっぱいになる。
呼吸が浅くなり、苦しくなる。
喉に何かがつかえているような感覚に襲われる。
無理やり言葉を絞り出そうとして、同じ音を連続させてしまう未来の自分が見えて、絶望する。
そして順番になれば、同級生からの奇異なものをあざ笑うような視線に耐えながら、なるべく小さな声で早口で挑戦する。
言えないものはどう頑張っても言えないから、吃りながらでも言うしかない。
授業中は何も起こらない。
先生も普通に授業を進める。
しかし、私の心には確実に傷が残る。
傷が残り、トラウマとなり、次回はもっと苦しむことになる。
算数や社会の授業では、「自分」との戦いに苦しんだ。
私は勉強が嫌いでなく、休み時間も自習をしているようなタイプで成績もそれなりに良かった。
というよりかは、小学校の授業というものは、聞いていれば答えられるものであるから、単に真面目な性格であっただけなのであるが。
授業を聞いているから、当然、先生の問い掛けに対する答えが分かることが多かった。
しかし、答えが分かっても、それが「吃りそう」な単語だった場合、挙手することを躊躇った。
そして大概の場合、挙手することを諦めた。
これが本当に辛かった。
自分の性格上、嘘をつくことは嫌いであったし、真面目に授業を受けて正当な評価を受けたい気持ちがとても強かった。
しかし一方で、「いじめのような行為」を少しでも減らすためには、目立つことは避けたほうが良い、ということも分かっていた。
授業は、通知表に直結する。
小学校4年生までは、本人的には楽しく生きていたため、「積極性が見られます」と通知表に記載があったものが、5年生以降、その記載は姿を消し、代わりに「協調性が見られます」という記載が現れるようになった。
元々の生きる方向性とでもいうのか、性格とでもいうのか、ともかくそういう自身のコアな部分まで、変更をしなければ当時の私は息をすることができなかった。
苦しかった。
ごく稀に、事前に「吃るであろう」と想定しても、本番でスムーズに発語できるときがあった。
そうすると、次回からはそのとき取った行動を反芻するようになるのだ。
① 息継ぎをしないで続けて発語すると言える
② 頭のなかで「1、2、3、4!」と数えてから発語すると言える
③ 廊下を歩く誰かの足元を見ながら「今!」と思ったときに発語すると言える
④ 右手で体側をトントンと叩きながら「今!」と思ったときに発語すると言える
など、多くの失敗と嘲笑された悲しき記憶の中から、自分が生きるための道を必死に探した。
次に地獄だったのは、休み時間や掃除の時間などだ。
教室の隅の自席でじっとしていようが、早々と帰宅することを試みようが、悪魔の笑みを浮かべた同級生たちから逃げることは許されなかった。
廊下や階段など、あらゆる場所で、視界に私が入ると露骨に嫌な顔をされた。
そして、リーダー格の少年が大きな声で誰にともなく
「おい、無視すんじゃねえ」であるとか
「菌がキタぞ」であるとか
「逃げろぉ」などと言う。
そうすると取り巻きたちは、ワッと盛り上がり同調し、一斉に駆け出す。
追いかける勇気もなければ、先生に言う気力もなかった。
掃除は、半年に一度ほど、立候補制で「掃除したい場所」を選び、決めていく制度だった。
しかし、私は自己主張して目立つことが怖く、最後に残ったものを選ぶことが多かった。
勿論やりたい場所に立候補すればいい話なのだが、同級生の「俺と同じものを選ぶなよ」という「視線」という圧に屈するしかなかった。
そのため、怪談話の絶えない2階の音楽室横のトイレの掃除を担当していたのだが、時々、掃除をサボった数人の女子がトイレに来て、ダメ出しをしていくことがあった。
「ねぇ、なんで〇〇の時、〇〇ちゃんの肩持つようなこと言ったわけ?」
「でしゃばってない?」
「〇〇君と話したら怒るから」
「〇〇ちゃんを贔屓してるでしょ」
「先生にチクったの?」
といった具合だ。
そう、男子だけではなく、女子からもいじめのような扱いを受けていたのだ。
体育での「二人組」は、当然全員に避けられ、先生と行う。
係や委員会、日直などの「面倒な役回り」を押し付けられる。
などなどである。
記憶の中で一番辛かったのは、「靴事件」である。
靴を隠されてしまい、帰れないという事態が発生したのだ。
下校時、下駄箱に行き自分の靴箱を開けたが、靴がない。
周りを見渡すと、帰宅部の男子数人が、玄関前に座り込んでニヤニヤしながらヒソヒソ話をしている。
どう考えても彼らが隠しているのだが、証拠はない。
他人の靴箱を片っ端から開けようとしたら、絶対に突っかかってくるつもりなのであろう。
私の挙動を楽しそうに観察している。
さすがにやりきれなくなった私は、一旦教室に帰ろうと踵を返した。
しかし、振り向いたところで、心の限界がきてしまい、涙がワッと溢れた。
そしてたまたま通りかかった先生に「どうかしたのか」と保健室に通された。
でも、証拠がない。
彼らに隠された、とは言えなかった。
先生が探してくれて、靴は見つかった。
もう、限界だった。
家へ帰り、ありったけの涙を流し、次の日から登校を拒否した。
両親には、涙ながらに説明したが、ほとんど言葉にならない嗚咽だった。
暫く習い事も学校も休み、引き篭もった。
そんなある日、同級生たちから手紙が届いた。
それは、道徳の時間に一人一人が書いたものを担任の先生がまとめ、家に届けてくれたものであった。
内容は概ね、
「わるぐちをいってごめんなさい」
「学校にきてください」
「まってるよ」
といった、悪く言えば「書かされた」ようなものが大半であった。
この手紙を書いたという道徳の授業の際に、私の持つ吃りやそれに関するいじめのことはクラス全員に広まったであろうし、こんなの公開処刑じゃないか、今度はこれをネタにネチネチと陰口を言われてしまう、と絶望感に打ちひしがれながらも、私は手紙を捲る手を止めることができなかった。
どうしても、どうしても確認したい人がいたのだ。
その人にとって、一連の出来事がどう映っているか、とても心配だった。
同級生たちのように、マイナスの感情を持たれてしまっているのだろうか、それとも…。
その人は、名をK君という。
K君は、本人に確認したわけではないが、私と同じく吃りがある「吃音症」の子であった。
しかし、K君はいつもめげずに友達や先生と積極的にコミュニケーションを取っていた。
そのおかげなのか、K君が学年一位の頭脳の持ち主だったおかげなのかは定かではないが、K君に対して吃りを指摘する同級生はいなかった。
勿論K君はいじめの対象となることはなかったし、積極性を失くすこともなかった。
「これが自分だ」と言わんばかりに常に堂々としているK君に対して私は、人生に悲観し、不登校になりながらも、一丁前に恋をしていたのだ。
K君からの手紙は短かった。
ほとんど一言だった。
「気が付かなかった。ごめん」
私は、泣いた。
既に泣いていたが、再び声をあげて泣いた。
K君からの手紙は、すぐに涙で濡れてインクが滲んでしまった。
真意を読み解くことが難しい、その手紙。
「気が付かなかった」は、褒め言葉として受け取って良いだろうか。
恐らく、恐らくではあるが、
① 息継ぎをしないで続けて発語すると言える
② 頭のなかで「1、2、3、4!」と数えてから発語すると言える
③ 廊下を歩く誰かの足元を見ながら「今!」と思ったときに発語すると言える
④ 右手で体側をトントンと叩きながら「今!」と思ったときに発語すると言える
などのスムーズに発語するための道を必死に探すことの大変さを、K君も理解していて、「気が付かなかった」と勇気づけてくれたのだろう。
そう推測した。
「ごめん」は、K君自身に向けた言葉であろうか。
分からない。分からないが、とにかく、そこに確かな謝罪の気持ちを感じたのである。
例文のような言葉ではなく、K君の心の内を書いてくれたその手紙が、何より嬉しかったのである。
私は、確かに救われた。
そして、1つ目標ができた。
生き甲斐というべきかもしれない。
K君に「ありがとう」を添えて告白をすることである。
そのために、学校も習い事も復帰した。
周囲からのソワソワした視線に囲まれながらも、不思議と私の心は以前よりも穏やかだった。
上辺の理解ではなく、当事者として「わかるよ」と言ってくれてるかのようなK君の存在は、私に生きる希望を与えた。
そして、K君に対する気持ちは日に日に大きくなっていった。
先にも書いたとおりK君は頭が良かったため、卒業後は県内屈指の進学校に行くことが決まっていた。
私は、小学生なりに、気持ちを伝えるのは今しかない、と理解した。
小学校6年生のバレンタインデー。
私は、手作りチョコを手に登校した。
しかし、皆が浮ついている日であるため、男子も女子もそれぞれの挙動を見逃さないとばかり、個人行動を避けていた。様子を伺っているようでもあった。
ホームルームが終わり、皆が帰路に着こうとしたとき、クラスの人気者のO君の元に、事前に示し合わせたと思われる女子数人が「O君!待って」と駆け寄り、各々チョコを手渡した。
すると、まるでそれが合図だったかのように、他の女子たちも思い思いの男子の元に数人単位で駆け寄り、恥ずかしそうにチョコを渡し始めたのだ。
私も慌ててK君の姿を探した。
K君は、バレンタインなど興味がなさそうに、友達と教室を後にしようとしていた。
私は、呼び止めたかった。
K君のいる集団に駆け寄り、「K君」と言いたかった。
「ありがとう」と伝えなければならないのだ。
「好きです」は恥ずかしいから、チョコを渡すことで察してほしい。
どうしても、渡さないといけないのだ。
しかし、K君の名前の頭文字である「か行」と「ありがとう」の「あ行」は、私にとって特に苦手な音であった。
咄嗟に、頭の中で、
① 息継ぎをしないで続けて発語すると言える
② 頭のなかで「1、2、3、4!」と数えてから発語すると言える
③ 廊下を歩く誰かの足元を見ながら「今!」と思ったときに発語すると言える
④ 右手で体側をトントンと叩きながら「今!」と思ったときに発語すると言える
を何度も試行したが、上手くいかなかった。
どうしても、どうしても
「…っ!!…っ、っっっ!!!ゔ!ゔ!ぅ」
にしかならないのだ。
どう足掻いても、K君のいる集団の前で、10数秒の間、吃る姿を露呈することになるのだ。
吃った後にしかK君の名前を言うことができないのだ。
そのことを自覚した。
私は、K君を呼び止めることを諦めた。
そして、チョコを手に家路に着いた。
家に帰り、階段を昇る。
自室のドアを閉め、座り込んだ。
張り詰めていた心の糸を切り、本音を頭の中に流し込む。
分かっていたのだ。
本当は。
「K君の名前」も「ありがとう」も、吃ることを。
吃りながらでしか言えないことを。
渡せないことを分かっていて、それでも普通の子みたいに好きな人にチョコを渡してみたくて、登校したのだ。
その日のために復帰したのだから。
自分が「普通ではないこと」と「吃音症であること」を深く自覚するとともに、深く憎んだ。
どうして。
どうして、普通の子みたいに出来ないのだろう。
どうして、普通の子みたいに、好きな子にチョコを渡すことが出来ないのだろう。
それだけではない。
「吃音症であること」以上に、確固たる「自分」を持てなかった自分を憎いと感じ、深く落ち込んだ。
吃音症を持ちながらも堂々と自分を生きているK君に対し、尊敬と憧れの気持ちを抱いていたにも関わらず、自分はどうであろう。
悲観してばかりではないか。
いつ何時も、いじめられているだけではないか。
10数秒の間、吃り続けても良かったではないか。
K君の名前を呼び、感謝の気持ちを言葉にして伝えるべきだったのではないか。
例え、どちらも上手くいかなかったとしても、強引にチョコを渡し、気持ちを形として見せるべきだったのではないか。
そう自責の念に駆られ、泣いた。
伝えることができなかった「ありがとう」と「告白」と、渡せなかったチョコは、こうして大人になった現在も忘れることができない。
あの時の私は、どう生きるべきであっただろうか。
私の取った行動は、「逃げ」ではあるが、いじめをこれ以上増やさないという「自己防衛」としては僅かながらにでも評価の余地があるであろうか。
K君はどうしているだろうか。
私が、K君に告白をしていたとしたら、K君の人生の物語は変わっていただろうか。
それとも、私のことなど眼中になかったであろうか。
真相は誰にも分からないのである。
そして、私は、キーボードをカタカタと鳴らす。
「掛川浩大」
検索、というボタンを押下する。
終