【不登校】吃音症で障害者手帳を取得することを決意するまでの記録②(10~15歳)
ある日突然同級生の前に露呈(①参照)した私の「吃り」は、悪化の一途を辿る一方だった。
症状も、周囲の反応も。
まず、授業が本当に辛かった。
挙げればキリがないのだが、
国語・道徳の授業で順番に立って音読する場面では、10人以上前から自分が読む箇所を確認し、心の中で音読し吃るかを確認し、一喜一憂する。
ダメだ言えない、と分かっていても順番は回ってくるし、音読が免除されるわけでもない。
「音読」というワードを先生が発した瞬間から、授業が終わり30分以上経過するまで、私の心臓は早くなり、耳の中がバクバクという音でいっぱいになる。
呼吸が浅くなり、苦しくなる。
喉に何かがつっかえているような感覚に襲われる。
無理やり言葉を絞り出そうとして、同じ音を連続させてしまう未来の自分が見えて、絶望する。
そして順番になれば、同級生からの奇異なものをあざ笑うような視線に耐えながら、なるべく小さな声で早口で挑戦する。
言えないものはどう頑張っても言えないから、吃りながらでも言うしかない。
授業中は何も起こらない。
先生も普通に授業を進める。
でも、私の心には確実にキズが残る。
キズが残り、トラウマとなり、次回はもっと苦しむことになる。
算数や社会の授業では、「自分」との戦いに苦しんだ。
私は、勉強が嫌いでなく、休み時間も自習をしているようなタイプで成績もそれなりに良かった。
というか、小学校の授業というものは、聞いていれば答えられるものであるから、単に真面目な性格であっただけなのだが。
授業を聞いているから、当然、先生の問い掛けに対する答えが分かることが多かった。
しかし、答えが分かっても、それが「吃りそう」な単語だった場合、挙手することを躊躇った。
そして大概の場合、諦めた。
これが本当に辛かった。
自分の性格上、嘘をつくことは嫌いだったし、真面目に授業を受けて正当な評価を受けたい気持ちがとても強かったためである。
しかし一方で、休み時間や掃除の時間など授業以外の学校生活における「いじめのような行為」を少しでも減らすためには、目立つことは避けたほうが良い、ということも分かっていた。
授業は、通知表に直結する。
小学校4年生までは、本人的には楽しく生きていたため、「積極性が見られます」と通知表に記載があったものが、5年生以降はその記載は姿を消し、代わりに「協調性が見られます」と記載されるようになっていった。
元々生きたかった方向というのか、性格というのか、ともかくそういう自身のコアな部分まで、変更をしなければ当時の私は息をすることができなかった。
苦しかった。
たまに、事前の想定で「吃るな」と感じていても、本番でスムーズに発語できるときがあった。
そうすると、次回からはそのとき取った行動を反芻するようになるのだ。
息継ぎをしないで続けて発語すると言える、
頭のなかで「1、2、3、4!」と数えてから発語すると言える、
廊下を歩く誰かの足元を見ながら「今!」と思ったときに発語すると言える、
右手で体側をトントンと叩きながら「今!」と思ったときに発語すると言える、
など、多くの失敗と嘲笑された悲しさの中から、自分が生きるための道を必死に探した。
次に地獄だったのは、休み時間や掃除の時間などだ。
教室の隅の自席でじっとしていようが、音楽室に逃げようが、早々と帰ろうと試みようが、悪魔の笑みを浮かべた同級生からは逃げられなかった。
廊下や階段など、あらゆる場所で、視界に私が入ると露骨に嫌な顔をする。
そして、リーダー格が大きな声で誰にともなく
「おい、無視すんじゃねえ」であるとか
「菌がキタぞ」であるとか
「逃げろぉ」などと言う。
そうすると取り巻き達は、ワッと盛り上がり同調一斉に駆け出す。
追いかける勇気もなければ、先生に言う勇気もなかった。
掃除は、半年に一度ほど、立候補制で「掃除したい場所」を選び、決めていく制度だったのだが、当然私は自己主張など許されるわけもなく、最後に残ったものを選ぶことが多かった。
勿論手を挙げればいい話なのだが、同級生の「俺と同じものを選ぶなよ」という「視線」という圧に屈するしかなかった。
そのため、怪談話の絶えない2階の音楽室横のトイレの掃除を担当していたのだが、時々、掃除をサボった数人の女子がトイレに来て、ダメ出しをしていくことがあった。
「ねぇ、なんで〇〇の時、〇〇ちゃんの肩持つようなこと言ったわけ?」
「でしゃばってない?」
「〇〇君と話したら怒るから」
「〇〇ちゃんを贔屓してるでしょ」
「先生にチクったの?」
といった具合だ。
そう、男子だけではなく、女子からも、いじめのような扱いを受けていたのだ。
体育などの「二人組」は、当然全員に避けられ、先生と行う。
係や委員会、日直などの「面倒な役回り」を押し付けられる。
などなど。
記憶の中で一番辛かったのは、靴事件だ。
靴を隠されてしまい、帰れないという事態が発生したのだ。
下校時、下駄箱に行き、自分の靴箱を開けても靴がない。
周りを見渡すと、帰宅部の男子数人が、玄関前に座り込んでニヤニヤしながらコソコソ話をしている。
どう見ても、彼らが隠しているのだが、証拠はない。
他人の靴箱を片っ端から開けようとしたら、絶対に突っかかってくるつもりなのだろう。
私の挙動を楽しそうに観察している。
さすがにやりきれなくなった私は、一旦教室に帰ろうと踵を返した。
しかし、振り向いたところで、心の限界がきてしまい、涙がワッと溢れた。
そしてたまたま通りかかった先生に「どうかしたのか」と保健室に通された。
でも、証拠がない。
彼らに隠された、とは言えなかった。
先生が探してくれて、靴は見つかった。
もう、限界だった。
家へ帰り、ありったけの涙を流し、次の日から登校を拒否した。
両親には、涙ながらに説明したが、ほとんど言葉にならない嗚咽だった。
暫く、習い事も学校も休み、引きこもっていた。
そして、私は、「県外逃亡」を決意する。
のだが、その前に少し習い事の話をさせていただきたい。
習い事はサッカーだった。
男子のチームと女子のチーム、両方に所属していた。
男子のチームでのいじめは、主に「激しい命令口調」と「避けられること」だった。
「〇〇しろよ!!」、
「なんで〇〇なんだよ!!」、
近くでの舌打ち、
少しのミスで大きく叱責される、
バスで隣に誰も座ろうとしない、
号令を知らせてもらえない、
パスがもらえない、など。
フリーなのにパスがもらえないと監督から怒られた。
常に一人だった。
女子のチームでのいじめは、概ね学校と同じだった。
「なんでお前が〇〇なの?」と妬むような内容もあった。
サッカーで、一番、一番、苦しかったのは、実はいじめではない。
「自分の名前が言えないこと」だ。
サッカーは、チーム、県の選抜、関東の選抜、全国の選抜、と段々と規模が大きくなっていく。
そうすると、「名前は?」「〇〇です。」というやり取りが何千回と行われるのだ。
しかし、私は、下の名前の発語ができなかった。
何回試そうが、上記の対処法を試みようが、ダメなワードであった。
そのため、「名前は?」と聞かれた後、すぐに答えられないでいると、
「え?(笑)」
「名前だってば!」
「早く教えてよ」
「自分の名前忘れちゃった??(笑)」
となるのだ。
この「自分の名前忘れちゃった??(笑)」は、本当に、何回言われても苦しいワードだった。
いじめより苦しかったかもしれない。
本当に本当に苦しかった。
吃りながら言うしかないのだ。
言うしかない。
本当に、それしかない。
悪気がないのも辛かった。
次回は、上記の宣言どおり、「県外逃亡」について。
高校生になってもいじめが続くのか、と絶望し、県外への脱出を図ります。