命は平等という言葉に疑問を持った日
この想いに共感してくれる人はいるだろうか。たとえ私と同じ思いを抱いていたとしても中々言葉に綴る、もしくは声を出すには勇気がいることかもしれない。きっとそうだと思う。私もこの記事を書くに至ってかなり勇気がいった。
このご時世だから、国やその方を応援していた人から攻撃されるのではないか、非国民とかバッシングを受けるかもしれないと。でも私は正直にここに自分自身の記録として残そうと思う。医療従事者として、そして1人の人間として。
2022年7月8日
仕事の合間、携帯を開くと衝撃のニュースが走っていた。
安倍元総理銃撃される、心肺停止状態。
このニュースを見た時に、『あぁ、もう助からないかもしれない』そう思った。
総理だった時にいろんなことはあったかもしれないが、一国の元総理が事件にあったという事実に身震いがした。そして喪失感を覚えた。
『大量の輸血』『100単位以上』
振り返ると、
これは助かるための輸血だったのだろうか。私はニュースをみていて、あくまで治療とは別に家族が来るまでの繋ぎなのではないかと感じていた。確かに家族が到着して同意を得て初めて蘇生処置は終了となる。私は中の人ではないので想像でしか言葉を発せられないため不快に思うかもしれないが、医療従事者であればそこまでの大量の輸血を行っても助からないとはわかると思う。でも一国の元総理、助かることに賭けたんだと思う。でもこのニュースを見た時、輸血の使い方に対して疑問を持った。
だが、そこまで輸血を行ってなくてもマスコミがそう書いたのかもそれない、形上そう報道したのかもしれない。救命措置のため、できる限りの対応をしようとされたのだと思う。もし自分がその場にいる医療従事者であれば医師の指示のもと同じ対応をしていたと思う。
自分たちの行いで、一国の元総理を死なせてしまうのではないかと。そしてそのように思われるのではないかと感じてしまう自分がいると思う。
その時ニュースを見て助からないとは思っていたが、どうか助かって欲しいとも願っていた。
私たち国民が、ある時事件に巻き込まれて大量出血をしている状態にある時に同じような対応はされるのだろうか、きっとそうではないと思う。おそらく、人間同士国会議員の中でも差はあるように感じる。
『人の命は平等』と人権において習ってきたと思う。どんな人でも誰かにとっては大切な存在である。これは日常的に医療に従事してきて感じている事実である。どんな理由であっても、人の命は奪ってはいけない、奪われてはいけない。
この事件は、命は平等と言われる中で正直ジレンマを感じるものであった。私はこの時1年間とある授業を受けるため大学に通っていた。倫理の授業があったが授業のたびに最近のニュースや出来事でジレンマを感じたことを発表しなければいけなかった。やはり同じ医療従事者からはこのニュースを取り上げる人もいた。私と同じように思っている人はいるのだ。多分医療従事者ならほとんど多くの人が感じていたのではないか。
輸血をあるだけ使う、おそらく病院以外からもかき集めたのだと思う。その時必要な人が使えなかったかもしれないと思ってしまう自分がいた。自分たちの大切な人が同じような目にあったら同じような対応をしてくれるのか。
せめて医療は平等であってほしい。
世の中の平和を祈ります。
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