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「大人になったな」と感じたとき

大学時代からあっという間に時が経ったと感じる。
仕事ばかりをしているうちに、いつの間にかそれが当たり前となって、
やってきくうちにいろいろなことができるようになった。
人は、時が経てば、必ず”成長”するものだ。

しかし、大人になった今でも、ときには失敗をすることもある。
そして失敗すると、必ずと言っていいほど、自分は落ち込むタイプだ。

なぜだめだったのか、自問自答を繰り返し、
その場面を何度も思い出す。

そんなとき、なぜか自分は、よく昔の自分も思い出す。
小学校4年生のとき、小学校で「自分の名前の由来」を発表したこと。
中学校1年生のとき、学級目標に自分の案が採用されたこと。
高校3年生のとき、最後の試合で自分が右足でクロスを上げアシストしたこと。
詳細までは思い出せなくとも、「確かにそうだった」と確信できる記憶が、よみがえってくるのだ。


大学時代、人工知能の研究をしている教授から、こんなことを教えてもらった。
「その人をその人たらしめるのは、その人の記憶である。」

つまりは、記憶が人格をつくるということなのだろう。
人工知能は生まれたばかりのときは記憶がなく、
その時点では「人」じゃない。
そういう話だったはずだ。

なるほど。
人の脳は、印象深いことしか残せないのかもしれないが、
むしろそういった記憶の断片が、
その人をその人たらしめている要因となるのだ。
自分にも、ちゃんとそれがある。


失敗したとき、時間を戻したいと思ってしまうのだろう。
それで、昔の自分を記憶から引っ張り出してくるのだろう。
そう思った。


そんなとき、ふと思い出したように、
大学時代に見たアニメをまた見たくなって、見た。
「Charlotte」というアニメだ。

よくあるSFモノなのだが、
当時見たときは、あまり感動しなかったはずだ。
話の内容がほとんど記憶になかった。
気分転換のつもりで、新鮮な気持ちで見た。

ところが、今回もう一度見て、
感動できる場面が多いことに気づいた。

家族の喪失、友人との死別、亡人との決別、恋人との約束といった、
ありふれているストーリーで、真新しさはないにもかかわらず、
大学生のとき感動できなかった場面に、この歳になって感動を感じてしまったのだ。



「あのときは何で感動しなかったのだろう」

 ――きっと、大人になったからだ。



その人の、印象深い記憶が、その人をその人たらしめるのだ。
それは、人生が進むにつれて、確実に増える。
それが増えれば、その人は変わっていく。

子供のときは、人生の始まりにしか立っていられない。
どんなに達観して見える子でも、所詮は10代、なのだ。
印象深い記憶など数え切れるほどしかない。
故に、子供なのだろうと、自分は思う。

それがいつしか増え、子供は大人になる。
だとすれば、それまでにいろいろなことを、
経験・知見・体験してきたのだから、
大人になったころには、
「感情移入できる事柄」が多くなっているはずである。
そういうことだ。

ここ数年で家族を喪失したわけでも恋人と約束を交わしたわけでもないが、
いろいろなことを社会に出て経験・知見・体験し、
それらが印象に残った結果、
昔感動できなかったことに、今は感動できたのだ。

つまりこれが、人が”成長”した証だろう。

「”成長”とは、感動できることが増えること」なのだ。


”成長”したら、大人と呼ばれるのだ。
そして、大人が子供を”成長”させるのだ。

なら、自分はたくさんのことを、子供たちに経験・知見・体験させよう。
直接できなくても、誘導くらいはできるだろう。

子供たちが、その人らしく、”成長”していくことを願っていよう……。

――”感動できることが、たくさん増えます”ように――



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