私が「走る人」になったわけ
ランニングを始めたきっかけは「東京マラソンに出たい」という思いからだった。
2009年の東京マラソンに会社の先輩が出場した。ある日の出勤時、向こうから足を引きずりながら歩いてくる先輩をみて声をかけた。
「どうしたんですか?」
「昨日、東京マラソンに出たんだよ」
知らなかった。先輩が走ってるなんて。先輩は当時すでに50歳を越していた。
改めて詳しく聞いてみると、先輩もランナーなわけではなく、前年の大会をテレビで見ていて漠然と「走りたい」と思ったのがきっかけだという。
その年の抽選に申し込んでみごと当選。ランニングを始めたかと思いきや、ろくに準備もしないで当日に臨んだということだ。途中からは足を引きづり歩きながらとにかく完走。
東京マラソンか。。。
スポーツなら、剣道から野球、バレーボール、バスケットボールとひととおりはやってきた私だけれど、陸上競技、ランニングだけは苦手だった。なにが悲しくてただ走らなけりゃならないんだ、と思っていた。
けれども、その先輩の話を聞いて、「なんかいいな、おれも走ってみたいな」と思ったのだった。
当時50歳目前、まだタバコも吸っていたし、運動からも遠ざかっていた。漠然と「タバコやめなきゃいかんよな」と思いながらもやめられず。。。というような時期だった。
チームスポーツが億劫になっていた私は、かろうじてプールに行くぐらいが運動だった。先輩の話を聞いて「そういえば、ランニングも一人でできるな。なにより水泳と同じでカネかからないな」と思いいたったときには、走ることを決めていた。
先輩の話を聞いた何日か後。2月も終わりに近づいた平日、帰宅後、夕食前に、陸上部の息子の使い古しのウインドブレーカーとスポーツ店の安売りで買ったウエアとシューズで走り始めた。
悲惨だった。10分もまともに走れない。真冬なのにすでに汗だくだ。それでも、やめようとは思わなかった。逆に、もっとがんばろうという気持ちが湧いてきた。なぜかはわからない。
少しずつ、ほんとうに少しずつではあるけれど、走るごとに距離も伸びていった。およそひと月、5キロをコンスタントに走れるようになった頃だろうか、「やっぱ、タバコ止めなきゃダメだわ」と痛感した。
忘れもしない2009年4月7日。会社の喫煙所でナチュラル・アメリカン・スピリット黄箱のラスト1本を最後に、私はぷっつりとタバコを止めたのだった。不思議なことに禁断症状もなかった。むしろ、これで正々堂々とランニングと向き合えるようなせいせいした気がした。
それから私のランニングライフは始まった。金哲彦さん、小出義雄さんの指南書を読み、ウェアをそろえ、ランニング用の時計を買い、ネットの地図でコースを考え、距離をはかり、ipodにはランニング用の曲を入れた。
当初はスマートフォンを持っていなかったので、ランニングアプリを使うこともなく、地図で距離の見当をつけて、ランニング用の時計でタイムを測り、記録をノートにつけた。
そうしてこうして、1年後にハーフマラソンの大会に出場。約2年後にフルマラソン(東京マラソンではない)に出場した。
もちろん、毎年東京マラソンに申し込んでもいるが、こんにちに至るまで1度も当選したことがない。
この間、2011年には東日本大震災があり、福島第一原発の事故も発生した。いくつものマラソン大会が中止になった。正直あのときは、放射能が怖くて走るのを少しためらうほどだった。
それでも走ることをやめなかったのはなぜだろう。
私は「自己治療的ランニング」とよんでいるのだが、走る時にはじつにさまざまなことを考える。よく「無心になる」などというけれど、まったく逆だ。とりとめのない考えが次々に浮かんでくる。良いことも悪いこともごちゃ混ぜだ。それでも走り続けていると、いつのまにか頭の中が整理されている(ような気がする)。
サラリーマン生活も終わりがみえてくると、なんともいえない焦燥感にかられてくる。順風満帆のサラリーマン生活をおくった人は違うのだろうけれど、年を重ねてもいろいろつまずいている「恥の多い人生を送って」きた私のような人間は、とかく気持ちが沈みがちになる。
いつのまにか、唯一の「自分が自分である」ことが実感できる時間が、走っている時になってしまったのかもしれない。
今年も、東京マラソンの抽選にははずれた。もっとも、当選していても、一般ランナーなしで開催されたのだから同じことかもしれないが、もし当選していたとしたら、その悔しさはいかほどだったかと、想像するのもコワイ。
走り始めた頃は、東京マラソンが目標だったけれども、いまは違う。
走ることが生きること。生きることは走ること。
私よりももっとずっと年配のランナーが、底がツルッツルのボロボロのシューズで走っている姿に勇気づけられて、私は走り続けます。
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