哲学と服
こんにちは。イデオロギーコオロギーです。
最近めちゃくちゃ暑いですね。スイカが恋しくなる季節だなぁと感じます…
こんなに暑いと流石にTシャツ短パンみたいな服装ばかりになってしまう私ですが夏もオシャレはしたい!
さて、いつまでたっても導入は上手くなりませんが、今回は題名通り自分の考えと服の関係について少しばかり哲学的な知識も交えつつ話したいと思います。
今回お話するのは心身二元論、特に心と体をいかに繋げるか、という内容についてです。
もう既に複雑な内容なようですがどうか最後までどうぞお付き合いよろしくお願いします。
僕はこうして普段から哲学の話ばかりしてなんとか哲学という学問の敷居を下げようとしているわけですが、みなさんは哲学についてどのようにお考えでしょう。
確かに哲学と聞くと難しい学問のように思われがちではありますが、文化について考えたり、服装について考えたり、音楽について考えたりする時私たちは存外、哲学というフィールドのすぐそばまで接近していることがほとんどだったりします。
道行く人々の服装を見た時私たちはかっこいい、美しい、かわいいと感じることがありますが、実際そのかっこいいとかかわいいという感情、情念とは一体何なのでしょう。
こうして考えることはまさに美学という哲学をするということであると私は思います。
ではもし仮に私たちがそれぞれ、自分が美しいとかかわいいと思うような服装をするとそれはまさに私たちは自分の考え、哲学を服装に反映しているということになるでしょう。
ここでこの例を少し抽象化してみようと思います。
まず本題に入る前に、この文章の最初にドドンと写真が載っている人物についてここまでズルズルと引っ張り続けて紹介してこなかったのでさすがにここらで紹介しようと思います。
彼の名前はルネ・デカルト(1596~1650)。17世紀フランスの哲学者です。
「我思う、故に我あり」とか、「コギトエルゴスム」という言葉を耳にしたことがある方もいるのではないでしょうか。
彼が開いてしまったパンドラの箱、それは心身二元論です。
なんだか専門的な言葉が出てきたなと思った皆さん、安心してください。
哲学というのは基本見掛け倒しの学問ですから、単純なことをわざわざ難しい言葉で説明してあたかも高尚なことのように見せかけているだったりします。
心身二元論とは私たちの存在の仕方とは心(理性)と身(身体)が合わさって存在するものである、ということを説明しています。
今読むのをやめようとした人達、もうちょっとだけお付き合いお願いします…
何を隠そう初めに書いた通りこの心身二元論がこの文章の1番の肝です。
私たちの考え、思考、理性に支えられた営みとは物理的な広がりを持たないものです。私たちの脳内で像とか言葉だけで表現されるものです。
一方で服というものはこの世界に物理的な広がりをもつものです。
実際に私たちは服というものに触れることができますよね!
しかし頭の中の言葉や像は脳を解剖してもこの手で触ることはできません。
察しのいい方はピンと来たかもしれませんね。
そう、何か考えを持って服を着るということは思想という物理的な広がりを持たないものを服という物理的なもので表現をする、非物理と物理の境界を横断するということなのです。
私たち人間は他の動物よりも遥かに高い知性を持っていることをアイデンティティとしています。
そのアイデンティティは残念ながらそれだけではなんの効力も持ちえません。
理性という武器を活用するには実際にこの世界に物理的な形で存在させなければならないのです。
その営みの第一歩として、今回服の可能性というものに賭ける意味を込めてこの文章を書いてみました。
私たち人間にもっとも密着した服というものなら、自分の考えを反映させやすいのではないでしょうか。
僕はこの、服の自己拡張の装置としての側面に賭けつつこれからも服と接していきたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今回の鎧ではなく武器としての服の着方という文章、いかがだったでしょうか。
また次の文章でお目にかかりたいと思います。
イデオロギーコオロギー
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