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「百年の孤独」は熱帯雨林の生態系を描いた作品である

著者

ガブリエル・ガルシア・マルケス(1927~2014)
6月4日読み始め6月15日読了。

訳者

鼓直

あらすじ

 呪われているのか愛されているのか分からない一族ブエンディア家と、彼らが興した町マコンドの栄枯盛衰の物語。

印象に残った人物

 ブエンディア家初代当主、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの妻、ウルスラ。5代も6代も続くブエンディア家を、影になり日向になり支えてきた肝っ玉母ちゃん(以後、敬意をこめて「母ちゃん」と表記する)は、この物語の骨というか、脊髄的存在。
 そんな母ちゃんの名場面が4つあるので、全て紹介する。

130ページ
 孫のアルカディオが町に自警団のようなものを作り、支配者として勝手気ままに権力を行使し始めた。ある日、アルカディオに批判的なことを言った者に対して銃殺の命令を下す、まさにそのときのこと。

「よくまあこんなことが! この父なし子!」とウルスラは叫んだ。
 アルカディオに身がまえるひまを与えないで最初の一撃をお見舞いした。「やれるものならやってごらん、この人殺し!」彼女は叫び続けた。「ろくでなし! 殺すんだったら、わたしもやっとくれ。そうすれば、お前みたい化けものを育てて恥ずかしがることも、こうやって泣くこともなくなるから」。手加減せずに無知を振りおろしながら中庭の奥まで追いつめると、アルカディオは蝸牛のように体を丸くしてその場にうずくまった。

「百年の孤独」

 このままアルカディオを野放しにしておけば、間違いなく手に負えないバケモノになっていくところを、そのギリギリのところで食い止めた母ちゃんのナイスプレーに、アッパレ!

193ページ
 次は、実の息子アウレリャノ大佐に対しての啖呵。保守党(アウレリャノ大佐率いる革命軍にとっては敵)からマコンド町長として派遣されたモンカダ将軍に対して銃殺刑の判断を下すくだり。「あの人は立派な人だった」とモンカダ将軍を擁護する我らが母ちゃん。それを受けたアウレリャノ大佐は「言いたいことがあったら、軍事法廷へ出て、そこで言って下さい」と。ウルスラは、革命軍の将校の母親全員を引き連れて法廷へ。そこでこのセリフ。

「あんんたたちは大まじめで、こんな恐ろしい遊びをやっているのね。ま、それもいいでしょ。義務を果たしているつもりなんだから」と、彼女は法廷の全員を前にして言った。「でも忘れちゃいけませんよ。生きてるうちは、わたしたちはいつまでも母親だってことを。革命家だか何だか知らないけど、少しでも親をないがしろにするようなことがあれば、そのズボンを下げて、お尻をぶつ権利があたしたちにあるってこともね」。

「百年の孤独」

 この、「私は母親なんだからね!」という説得力たるや! 昔見ていた長渕剛のドラマ「親子ジグザグ」を思い出した。毎回のように長渕が息子のイサムを叱り飛ばすんだけど、それがまた、言葉はきついんだけど、イサムへの愛にあふれてんだよね。当時高校生ぐらいだったけど、毎回そのシーンに涙したもんだ。つまりは何が言いたいかというと、愛があるからこその迫力なんだな、と。

205ページ
 三つ目。幼馴染みであり戦友でもあるヘリネルドを反逆罪で死刑の判断を下さなければならないアウレリャノ大佐。「誰も入れるな」という命令を無視して、母ちゃんは息子の部屋に入っていく。そこでの啖呵。

「お前がヘリネルドを銃殺するつもりだってことは分かってるよ」と、落ち着いた声で言った。「わたしに、それを止める力のないってことも知ってるわ。でも、忘れないでおくれ。もしあの男が死ぬようなことがあったら、いいかい、亡くなったふた親のお骨やホセ・アルカディオ・ブエンディア(ウルスラの夫、つまり大佐の父)の名前にかけて誓ってもいい、神様に誓ってもいい、お前がどこに逃げ隠れしようとかならず探し出して、この手でその首を絞めてやるからね」。

「百年の孤独」

 ここでもまた、愛ゆえの怒りをぶちまける我らが肝っ玉母ちゃんウルスラ! 読むたびに泣いてまうわ。

211ページ
 そして最後、停戦が近づき、ひさかたぶりに我が家へと帰ってきたアウレリャノ大佐。魂が抜けたような状態の彼が、自分の足跡を消そうと、身の回りの品を処分しだしたときのこと。何から何まで全てを捨てようとしているのに、(自害のために)ピストル一梃と一発の弾丸だけはとっておいたことにも口出しをしなかった母ちゃんが、それだけはよしとくれと窘める場面がこれ。

ただ一度、彼が常夜灯に照らされて今も広間におかれているレメディオス(早世した大佐の妻)の写真を破り捨てようとしたとき、それを止めて言った。「その写真は、ずいぶん前から、お前ひとりのものじゃなくなってるんだよ。この家の大事な品物なんだから」。

「百年の孤独」

 前述した三つの場面のような激しさはなく、ここではしんみりと言い聞かせる。そう、その光景はまさに母と息子。そして純粋無垢で天使のような存在だったレメディオスのことを思うと、なおさら涙なしには読み進めない。

 以上、母ちゃんの名場面でした。いつも、本当に大切なことだけを教えてくれる、それがウルスラ母ちゃん。

感想

  読み終えたときの感想は「え? こんなもん? この程度で世界的名作とか言われてんの?」だった。いや、もちろん面白かった。ブエンディア家が巻き起こす数々の奇譚や武勇伝、そして彼らを取り巻く奇妙だけど魅力的な人たち。マルケスの癖のある文体が、この物語の空気感にマッチしていて、全篇を通して興味深く読めたことは間違いない(後半、ややダレ気味に感じたけど)。
 なんだかモヤモヤした気持ちのまま巻末の解説を読み始めたのだが、そこには北と南の植生の違いが冒頭で触れられており、続いてこのようなことが書かれていた。

 南方のジャングルの、一種独特の熱気と狂気に近い旺盛な生命力は、むせ返るような植物の多様性、奔放さ、獰猛さを印象づける。北と南の地域的な志向性というのは確かにある、とそのときぼんやりガルシア=マルケスを思った。

「百年の孤独」解説 梨木香歩

 ポン! と、それまで頭を支配していたモヤモヤが、ポン! と飛び出して、全てのことに合点がいった。そうか、この「百年の孤独」という物語は、熱帯雨林地方の生態系を切り取ったものなのだと。この物語にストーリー性やら整合性などを求めてはいけない。ただ、そこで生きる生命体の躍動を観察しさえすればよいのだと。
 そういう頭で物語を振り返ってみると、物語の始祖となるホセ・アルカディオ・ブエンディアとその妻ウルスラそして二人から派生していく何代にもわたる子孫たちは、なるほど、ただ単に“熱帯に生きる生命”と捉えることもできる。彼ら熱帯の生き物がこの世に生を受け、欲望を吐き出し、さらに新たな生命が生まれ、再び欲望を吐き出しと……、この「百年の孤独」は、言ってしまえばただそれだけの物語なのである。エピソードがいくつもあり、それぞれのエピソード同士はもちろん何らかの関わりを持ってはいるものの、関わり自体が重要なわけでは決してなく、重要なのはそれぞれの生命体の生き様なのだと。これはつまりは、「行く川の流れは絶えずして」で始まる鴨長明の方丈記ではないか。

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし

方丈記

 この一文なんかは、まさに「百年の孤独」そのもの。
登場人物たちは熱帯雨林地方に生まれた多種多様な“うたかた”であり、私たち読者は、そのうたかたたちの舞い踊る姿を想像して、ただ楽しめばいい。それこそが、この物語の楽しみ方ではないだろうか。

おまけ

 約一年前、雑誌「考える人」2008年春号を買って、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」が海外長篇小説ランキングで一位を獲得したことを知りました。そして即購入。すぐに読むつもりだったんですが、同じ時期に近藤康太郎さんの「百冊で耕す」を読んで、海外小説を体系的に読むことの重要さを教わり、思いとどまりました。そこにはこんなことが書かれていました。
「本当は古い名作から順に読んでいくのが一番なんだけど、あまり古すぎるととっつきにくいから、まずは19世紀頃、小説という文化が花開いた頃の名作を楽しみ、そのあとでもう少し古いものを読み、小説というものの原点を理解した上で、それまでの小説の殻を抜け出したマジックリアリズムなどを楽しみましょう」
 素直でいい子な私は言われた通りに、一年かけて海外古典小説を読みあさり、そして満を持してマジックリアリズムの代表格である「百年の孤独」に挑んだというわけです。
 おそらくではあるけれど、その方法は正解だったと思います。小説とはなんたるものか、ということをある程度理解していないと、この小説は楽しめないんじゃないかな。まあ、それを言うと全ての小説が当てはまるんだけれど、とにかくまあ海外古典をある程度読んだおかげで、ああ、ここは「ドン・キホーテ」みたいだなとか、ドストエフスキーのポリフォニー的だなと言った感じで、「百年の孤独」を理解するための取っ掛かりを、いくつも見つけらたと思います。

 折しも世間では、というか読書人界隈では、「百年の孤独」文庫化に湧いております。こちら新潮社のⅩ↓。

 私がこの記事を書いているのが6月23日なので、三日後に発売されるというわけです。なんかこういう“時の縁”って大事だと思うので、単行本を読んだばかりではありますが、文庫本も買ってみます。筒井康隆の解説も気になるし。

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