
Photo by
shimomayu
哲学における「私」の特別さ。
「私」について考えているのは、「私」である。
そして、「私」が私について考えているということも、「私」によって考えられている。考える主体がいなければ、考えることはできない。
しかし、そもそも「考える」という事態よりも先に「私」は存在しないはずである。我思う故に我ありという言葉の通り、考えることによって初めて私の存在が認識される。
よって、この「私」というものは、「考える」ように先立って創られている。
つまり、考えるところの「私」というものが、考えるより前に先に知られているのである。
これこそ、論理に依らない事実としての「私」である。
もちろんこの神は「考える」ことで必然的に今現在に想定される神であり、信仰に依る神ではない。
そして、論理にも信仰にも依らずに「私」を認識できるからこそ、人々は「私」という存在を確信できるのである。
これが論理や信仰に依らない私だけの「私」である。