2022/8/20インターネットと民主主義と全体主義

民主主義とインターネットはどのように関係していくべきだろうか。

民主主義は誰もが権利を持ちうる、下から上への精神を反映するシステムかもしれない。

インターネットは人々にとってほぼ混沌であるかもしれない。

一応制度が成り立っている旧式の権利保護システム

ほとんど制度は決まってないが利用ルールがかっちり決まっているカオスシステム

旧式というのは、何十年も利用ルールが変わっていないという意味で
利用ルールというのは
文法のようなものである。
言語と思っても良い。

そう思えば
言語以外でのコミュニケーションが進歩しなさすぎている感は否めない。


話は逸れるが
日本は全体主義という時代があった。
欲張りません勝つまでは
という言葉が流行っていたそうな
空気を読む

村八分
みたいな概念はどこの社会にもあるだろうが
それは仕方ないことなのか。

私は全体主義を考えることがインターネットを民主主義に反映させることのできる鍵であるような気がする。

インターネットはいわばポピュリズム的に利用される。資本主義社会ではその影響も加速する。

全体主義はトップの言うことを正とする。

インターネットではトップは居ない。
正とされるのは嘘か確かなものか定かではない情報をもとに2言論的に提示された枠組み内の議論や展示、配信である。

インターネット内は正しさに向かっている。もし大多数の人が正しいと思えば吟味せずとも賛同数がすぐに見える。
正しい数字かどうかもわからないが見える。
そしてこれだけの人が賛同してるなら正しいだろうとなる。
逆に反応して発信しているのは反対者ばかりである。
反対者が目立つものは反対の意見の中身を確認せずに悪であろうとなる。

悪であることには人は近づかない。近づきたくない。
いずれ忘れられる。
そして徐々に正しいことだけに舵きりされていく。

人が正しいと洗脳される危険性は全体主義に似ていると思う。

周りが言っているからこう言論する。こう行動する。
危険思想を排除する。
監視下にあるコミュニケーション。
強者という被害者

トップがいない全体主義

ちょっと疲れたから
この先は後程

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