風景の見え方が変わったとき
僕の心のヤバいやつ、の感想を交換していたはずが、どういう経緯だったか、萩原朔太郎に対する厄介なオタクのような自論を彼に対して展開し始めながら、思い出したのが中学生の頃の転換点。中学受験の勉強の中で、妙に政治とか国際条約とか、そういうのに興味とか、その角度から大人に対してどうしようもないイライラを抱えるようになっていて、それなりに小学6年生という時期も女子校という新しい環境も楽しみながら、一方で時々破壊衝動に(脳内妄想として)かられることがあった。要するに軽く中二病だったのだと思います。このイライラの方が割合を増しつつあった時、あるきっかけで周りの景色が一変、というかまともに「見える」ようになり、今度は何でも簡単に愛おしむような余裕が持てるようになった。
そのきっかけというのが、Blankey Jet City、とりわけベンジーこと浅井健一の歌詞との出会い。センス抜群の友人が「しばらく他のJ-POPが聴けなくなった」くらいハマっていて、しかし、結構叫ぶやつ、暴力表現がある、などと躊躇しながら黒盤を録音したMDを貸してくれたのだが、もうね、「ガソリンの揺れ方」の冒頭で、もうこれ好き、となった。質量のあるものと感じる音楽とともに入ってくる単語に目が覚めたような、そんな体験だったと思う。今となってはこの時の生の感覚は定かでなく、特別どのフレーズがというのも特定できない。「鉄の塊にまたがって揺らしてるだけ 自分の命 揺らしてるだけ」だったのか、ロメオの「悲しみが嫌いだったら 気のぐれた振りをすればいいし」か、「愛すべき僕の街に くちづけがしたくなったぜ」か、はたまた、「ガソリンの香りがしてる」の一言で自分の小さな心象風景が吹き飛んだか。ただ、急に見慣れた風景がちゃんと見えるようになった感覚は覚えている。通学路のどうにも好きになれなかった、色褪せた古い芸能人のポスターが張られたクリーニング店の、その雑然とした店先の鉢の花の鮮やかさを見て、世界って美しいんだな、と突然思った。さすが中二。
ヘッダーの画像のような風景も、それ以前は大嫌いなものの一つだった。何となくチープで、自然じゃなくて、原色が強くて主張が激しくて、単純で。ただ、その転換点以降、こうしたオシャレとは程遠いデザイン、されどそこにエネルギーのあるようなもの、そんな人工物の面白さにも目を向けるようになったような気がする。