見出し画像

#34:問い、かけること、かけられること。

能登半島地震により被災された方々には心からお見舞い申し上げるとともに、
救助に尽力されている皆様には安全に留意され、ご活躍されることをお祈りいたします。


私の、よく分からない“感じ”

阪神大震災を隣県で体験し、東日本大震災は東京23区で経験した私である。
何が怖いのか、悲しいのか、心をゆさぶるのか、今でも自分でもわからないのだけれど、実は今起きている「大地震」を想像しただけで、実は涙が滲みそうになる。

理由が本当にわからない。
言うても私は、それぞれのタイミングで、直下の被災地の人々などとは比べ物にならない安全な場所で過ごすことができたし、目の当たりの死にも出会っていないのに、なんかアカン感じがする。
そんなこんなで「死者数のカウンターが上がるのも見たくないし、何もできないのに被災地の様子を眺めているのも嫌やし、テレビ消せへん?」と提案したものの、何故か「逃げて!」と絶叫し続け、普段は見ないようなバランスで、緊急内容の文字が散りばめられた画面を眺め続ける夫と娘たち。私の問いかけに対して何か理由を言っていたけど、「被災地の動向への興味・好奇心」以上の“消さない理由”にはなってない気がして、私はそそくさと「地震のニュースは苦手やから」と自室に引っ込む。ドアを閉めるか閉めないかのタイミングで、長女が「過去の被災経験を活かして、今は津波のセンサー数が増えているんよ〜」と過去に調べたらしいデータの写真を持って来てくれる。それから「アナウンサーがあれだけ『映像では海に変化は見られませんが、東日本大震災の時も同じでした。とにかく逃げてください』と連呼しているから、以前よりは助かる人は多いんちゃうかな」「神戸や東日本の震災の経験はちゃんと活きているよ」というようなことを話してくれた後、「お母さんは、地震が怖いの?被災者を直接助けられないのが嫌なの?」と投げかけて来た。
後者の問いは想定外だったので、ちょっと面食らう。ただ、ドンピシャという射抜かれた感覚はないけれど、私の見えていないところにある彼女に見えている私の気持ちなのかもしれず「二つ目、それはあるかも」と受け入れた。ジョハリの『盲点の窓』かもしれないな、と。

やっぱり、一人じゃ堂々巡り

先日から哲学対話のルール説明を作り直しているのだが、そこで読み返しているのは、梶谷真司 先生の『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』。その後、先生は2~3冊の新しい本を著されているのに、やっぱり
立ち返るのはこの本。

そこにこう書かれていた。

“私たちは「問う」ことではじめて「考える」ことを開始する”
“きちんと言葉にして語ることで、考えていることが明確になる”
“さらに問い、考え、語る。これを繰り返すと、思考は哲学的になっていく”

梶谷真司 『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』より

ものを考えるには問いが必要で、その問いは自問自答でもいいんだけれど、その場合ぐるぐると堂々巡りになる場合が多いので、人に話す、文字にする、言語化することで考えていることを漠としたままにせず、明確にしていく。そうすると更に考えは深まり、他人からは見られている自分には見えていない窓を見ることにもできるようになるんじゃないかな、と。
だからまず初手は、自分ではない家族や友人、知人、見ず知らずだけど同じ関心で集まっている哲学対話の仲間に、想定の内外のいろんな角度から問いかけてもらえたら、いいよね。人様の手を煩わせるなんて贅沢と言われるかもしれないけど、いい、絶対に。

うむ、ここで唐突に終わることにする

私は、書けば書くほど薄っぺらくなる気がするので(そもそも厚みがないのか!言語化して分かったぞ)、この辺で終わりにしておこう。
とはいえ、結論だけは書いておく。

新年早々、私の言いたかったことは「みんな問いかけあいしようぜっ!」からの、「私に問いかけてくれる人、私に問いかけられたい人、募集中」であるぞ。

おまけ:雨上がりの石畳で走り回ると滑ってどうなるかを体感する直前の長女。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?