すべては距離感である⑦ 才能ってなんだ? ━記憶の中の距離感━
感動とはどこから生まれてくるのか━━「才能とは何か」という問いに対する答え
感動する。心が動く━━。
小説や漫画、映画やアニメーションや舞台にゲーム、音楽と、本連載のテーマである写真。
この世界には、才能にあふれたクリエイターたちの生み出す芸術文化と作品が日々生み出されています。
私は、映画のプロデューサーを生業としていますが、「才能ってなんですか?」と問われた時、
「観客の中に眠る記憶を呼び覚ますことが出来る人」
と答えるようにしています。
どんなに美文を連ねても、いかに美しい絵画や映像を生み出すことが出来ても、演奏が上手くても、観る者、聴く者の中にある記憶を呼び覚ますことが出来るクリエイターは稀です。
人間は生まれ落ちた日から、記憶を積み重ねながら生き、やがてこの世から去ってゆきます。
記憶とは「思い出」と呼ばれたり「ノスタルジー」と表現されたりしますが、素晴らしい作品に出会った時、私たちの脳内には、えも言われぬ懐かしさに似た感情が沸き起こり、涙や笑顔とともに溢れ出します。
全編アクション満載の映画や感覚を刺激し続ける一部のゲームは別として、多くの優れた作品には、私たちの記憶を呼び覚ます物語や比喩表現、映像、セリフ、構図が描き出されている。
私はこうした表現によって自身の中に沸き起こる感動を、「あるあるスイッチ」と呼んでいます。
才能のあるクリエイターは、この『あるあるスイッチ』を押す方法を持っている人だ━━と。
職業別に言語化してみると、下記のようになるでしょうか。
《詩人》最小限の言葉と言葉の間(行間)に、読者の記憶の中に眠る映像や音を呼び覚ますことのできる言葉の達人
《小説家》言葉と物語、台詞を通して、キャラクターの人生を読者の人生であるかのように感じさせる達人
《漫画家》キャラクターとストーリーを、コマ割りと吹き出し使い、まるで紙の上に世界が存在しているかのように感じさせる達人
《映画監督》シナリオという物語、役者というキャラクターをロケやセットで芝居させ、観客があたかもその場に立ち会っているかのように感じさせる物語と映像の達人
《アニメーション作家》描いた絵が動くというアニメーションの特性を生かし、物語やストーリーのみならず「動き」を通して「あるあるスイッチ」を押し続ける達人
《写真家》 瞬間を記録するというカメラの特性を生かし、構図や光、動きの瞬間を捉えて、観る者の「あるあるスイッチ」を、静止した被写体動きの前後とフレーム外にまで広げることのできる達人
優れたクリエイターは、自身の中に眠る大切な記憶を表現する術を持ち、不特定多数の人々の脳内の記憶を呼び起こすことができる。
以前、米津玄師さんのお話を伺っていた時のことです。米津さんは自身の創作の原点に関して、こう表現されていました。
「子供の頃、僕は田舎に住んでいたので、遊び場は海や近所の川でした。田舎は日が落ちるのが早いのですが、夢中で遊んでいるうちに日が落ちて暗くなる前までの時間、川の向こうに「誰か」がいる気がしていた。僕は今もその「誰か」にむかって作り続けている気がするんです」
米津さんの作品を聞く時、心の中に生まれるどこか懐かしくて胸が締め付けられるような感動は、少年時代に米津さんが感じた「何か」を、作品を通して私たちが疑似体験しているからなのだ━━と納得しました。
クリエイターの多くは、子どもの頃のことをよく覚えています。
「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督と、「魔法少女まどか☆マギカ」の新房昭之監督がはじめて対面する食事会にご一緒したときのこと。たしか西荻窪のおでん屋さんだったと思うのですが、初対面のおふたりにどう打ち解けて頂くのか……その場に同席した我々は、あれやこれやと気をもんでいました。
ところが対面して数分、ふたりは、30年以上前の「月刊アニメージュ」のある号のあるページ(!)の細部について、熱く語り合い始めたのです。しかも、その見開きページに何が描かれ、印刷されていたキャラクターがどのようなディテールだったのかも……。
庵野さんは自身を「コピー世代(明確にこういう言葉を使ったかどうかは定かではありません)」、と称し、新房監督はその作品において、膨大な情報をコラージュのようにして作ってゆくクリエイターですが、彼らは自身の中に眠る膨大なアニメ(や特撮)の記憶をすぐに引き出すし、自身の表現に昇華することができる。
私も高畑勲監督や宮﨑監督に「覚えておくこと」を叩き込まれました。
新しい場所にきたら、その場にあるものの配置やディテールまで記憶することで、その場で語られたこと、交わされた情報だけではない、空気感をも記録し、仕事に活かすことが大切だ━━と。
高畑さんと宮﨑さんの横で、カメラ無しで写真を撮っているような感覚です。
スティーブン・スピルバーグ、スティーブン・キング、J.D.サリンジャー、宮﨑駿、藤子・F・不二雄といった作家の多くが、5歳〜10歳くらいの少年少女たちの物語をつくり、世界中で評価を得ているのは、5歳〜10歳の記憶が、老若男女、どの世代の人にとっても共通の記憶で形作られているからだと考えています。
読者の皆さんと僕の5歳〜10歳くらいの記憶には、きっと大差はありません。でも、思春期から大人になり、今日に至るまでの記憶は、仕事も生活も枝分かれして分岐し、共通点は減ってゆく。
「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公が14歳なのは、「子どもと大人の境界が14歳前後である」ということを、庵野さんが考え抜いた結果、設定されたものなのではないでしょうか。故に放映当時も今も、14歳━━そしてかつて14歳だった多くの人たちが「碇シンジの物語は自分の物語である」と信じ(錯覚)る。
サリンジャーは、ホールデン・コールフィールドというキャラクターを生み出し、世界中に「自分がホールデンだ」というファンを生み出しましたが、やがてファンに苦しめられ、晩年は著作を出版することなく、ただ自分のためにだけ書き続け、生涯を終えたそうです。
才能がある人とは、より多くの人たちの中に眠る共通の記憶「あるあるスイッチ」を押すことが出来る人たちなのだと思います。
表現者とは、様々な表現手段を通して、鑑賞者の記憶の中の感情を呼び起こす仕事なのではないかと考えるのです。
記憶の中の距離を撮る
記憶の中にも「距離感」があります。
目を閉じ、昨日一日起きたことを思い出してみてください。その記憶と今日の記憶との距離は、きっと近いでしょう。
では子供の頃、思い出せる限り昔の記憶を呼び覚ましてみましょう。その記憶と現在の記憶との間には長い長い距離が存在するはずですが、どこか近くに感じる記憶がある……。
私の最も古い記憶は、幼い頃に過ごしたドイツ・ニュルンベルクの保育園での記憶です。
その日は仮装パーティーの日で、私はロボットの格好をして、頭にアンテナをつけていました。
アンテナの先にはお菓子の「ミルキー(おそらく日本から送ってもらたのでしょう)」が刺さっている。仮装大会が終わったら、食べたいと思っている。
でも、仮装パーティーの最中、年上の女の子にからかわれてミルキーをとられてしまい、泣きながら家に帰ると、母が玄関で待っていて抱きしめてくれた……という記憶です。
母の後ろには、父が優しい顔をして立っていたような気がします。
今も、ミルキーのパッケージを目にする度に、私の脳内は一瞬で40年以上前のあの瞬間に遡ります。
実際に、こんな出来事があったのかは定かではありません。しかし、遠い昔のことであるこの記憶は、時間を越えて近づいてくる。
記憶の中の距離感とは「遠くて近い」距離感である。
記憶は、時間軸という距離感をともないながらも、すぐ近くに感じることができるという距離感を持っている。
この「記憶の中の距離感」を大切にすることが、写真を撮る上で最も重要なことなのではないか……と考えています。
素晴らしい小説や映画、漫画やアニメーションに出会うと、自分が経験したことではないのに、強烈な力で時間と空間を越え、自身の中に眠る記憶へと引っ張られてゆくような感覚に襲われることがあります。
特に写真は、行ったことも、見たこともない風景が写っているのに、強烈なノスタルジーや得も言われぬ感情に襲われることがある。一冊の写真集を紐解くうちに、涙が溢れて止まらないことがあります。
ポートレートでも、ストリートスナップでも、風景写真でも、優れた作家の作品は、見る者の「あるあるスイッチ」を押してくれる。
そうした優れた作家の写真を見続けるうちに、写真(写真に限らずあらゆる表現)には、撮影者と被写体との間の物理的な距離感だけではなく、見る者=鑑賞者との距離感というものが、写し出されている写真とは別に存在するのではないかと考えるようになりました。
最近、フィルムカメラブームが再燃し、デジタルカメラにおいても、フィルムシュミレーションを使い、フィルムっぽい表現を好む方が、若い世代を中心に増えているそうです。最近は「エモい」と表現するのでしょうか……。
昔のカラーフィルムを「懐かしい」と感じるのは、当時の光景がそうだったのではなく(今も昔も光や世界の解像度は同じです)、フィルムの粒子と、劣化・退色し、ある種「記号化」された情報によって、懐かしいという「あるあるスイッチ」を押されるから。
昭和のレトロ喫茶に通うのが趣味だという20代の女性に「なんで経験したことがない時代のレトロが好きなのかな?」と問うたら、「私達の周りは新しいものばっかりで全然魅力を感じないんですけど、なぜか自分もこの時代を生きたことがある気がするんです」と、素敵なことを言っていました。
モデルを撮って「いいだろ! オレの写真!」と誇らしげにしているフォトグラファーは、少年時代の異性に対するあこがれやコンプレックスを写真を通して表現している(あくまでも私の想像です)訳で、「自らのフェティッシュを人前に晒すって勇気あるなぁ」、と感心しながら見ています(何より、美しく写る被写体が素晴らしいのだと思いますが……)。
モデルの魅力を引き出し、まるで今にも語りかけてきそうな写真を撮る方の写真は心から感心しますが「俺、上手いだろ!」という「オレオレスイッチ」だらけのポートレート写真を見かけると「距離感ないなぁ」と感じてしまう。
記憶の中の距離感とは何か
私にとっての優れた写真は、写し出されている瞬間のみならず、フレームの外や動きの前後や、被写体の見つめる先等、撮影されている情報以外の感情や物語性を感じさせてくれる作品です。
アンリ・カルティエ=ブレッソンは、スナップシュートの名手と呼ばれますが、技術的な名手なだけではなく、彼が撮った20世紀という時代とそこに生きる人々の感情が、見る者の郷愁と共感を生むからこそ歴史に残る写真家なのだと思います。
アレック・ソスの写真が素晴らしいのは、アメリカをロードトリップしながら撮影された写真の中に、どこか切ない、寂しげなユーモアが呼び起こされるからこそ価値がある。
森山大道さんの写真に写し出された新宿やニューヨークの街が、鮮烈に我々の感情を揺さぶるのは、粗粒子のモノクローム写真によって記号化された都市の風景と人々が、乱雑に見えながらグラフィックデザイン的に「記号化」されていることにより、我々鑑賞者の中に眠る記憶をダイレクトに呼び覚ますからに他なりません。
被写体との距離を決定し、シャッターを押すという物理的な「距離感」とは別に、自分の撮った写真を見た人の中に、懐かしさや物語性を感じてもらえるような「記憶の中の距離感」を表現したいと心から思います。
カメラを手に街を歩き、懐かしさや感情が動く被写体を見つけたら立ち止まり、その感情がどこから来たのかを考える。否、考えているうちに被写体は逃げてしまいますから、「あ、この感覚伝えたいな!」と思ったらパッと撮る……という感じでしょうか。
アンリ・カルティエ=ブレッソンの残した写真術に、こんな言葉があります。
“To photograph: it is to put on the same line of sight the head, the eye and the heart.”
写真を撮るということは、頭と目、そして心を同じ視線上に置くことである。
ブレッソンは、M型ライカと、バルナックライカというレンジファインダー(距離計)カメラを使っていました。文字通り、被写体を自身との距離を測って撮る……という技術的な意味でもありますが、「heart=心」と表現している理由は、撮影者の「心=感情」を写し取り、作品を見る者の「あるあるスイッチ」(ブレッソンの写真に使うには軽すぎる言葉ですが……)を押すことを意味しているのではないか━━と思うのです。
自らの心の中に沸き起こる感情や感動を、作品を通して私達に伝えてくれるクリエイターを心から尊敬します。
そして、私のような凡人にも、シャッターを押すことで表現の機会を与えてくれる写真とカメラという文化に出会えたことは、本当に幸せです。
今日も「あ、いいな……」と感じた被写体へむけ、シャッターを押したい。
いつか、私の写真を見て下さる方々の「あるあるスイッチ」を押せる日がくることを願って。