中村哲 「わたしは『セロ弾きのゴーシュ』」(NHK出版 2021年)を読む 1
この本には、現在のわたしたちがなくしてしまったことが書いてあると思う。ぜひ、ご一読をお勧めします。
1996年2月22日 中村哲 49際
ペシャワールを知ることは、世界を知ることだということを先生はお書きになっていらっしゃいますけれど(『ペシャワールにて』石風社)、そういうことでしょうか。
中村 そうですね、そういうことなんですね。たいてい、いろんなことに口を出して議論をするのでは、総論は言えるけれども、本当にそのことを知るということにはならないんじゃないかという気がするんですね。
わたしたちは生きる時間が限られていますし、生きる空間も限られています。その中で、何かを知るというのは、これはもちろんほかのことでも言えることでして、 一つのことを深く掘り下げていけば、ほかのこともわかってくるという意味で使ちております。ペシャワールに行かなければ世界がわからないという意味ではないです。
それにしても、ペシャワール、それからアフガンの山村無医地区という、あまりにも、いまの日本の現実とは対照的に異なったところだという印象を受けますけれども、現地からいまの日本を見て、お感じになっていることがあったらお話しください。
中村 そうですね、あまり多すぎて、言いにくいんですが。
まずですね、わたしが最近思いますのは、特に、進歩だとか、豊かさだとか、それを追いかけてきて、特に戦後ですね、さらに遡っていきますと明治維新以後ですね、わたしたちが、「こうすれば幸せになる」「こうすれば豊かになる」というものが、 一つの結果が出てきておるという感じがするんですね。話があんまり大風呂敷になるかもしれませんが、それの結果がいろんなところで、もう、崩れて、出てきておるという気がしてならない。逆に、だからペシャワールになかれるわけでして。人々の、本当にシンプルな生き方を見て、どっちが豊かかわからないということもあるんです。先に生死の問題を話しましたが、その生き死にの問題にしても、長生きはするようになったけれども、なんのために生きているのかわからないと。こういうのを一つ収ってみても、われわれが考えてきた、進歩だとか、近代化とかいうのが、本当に幸せに繋がるかどうかわからないなという感じが、このごろしてならないんです。
どうも、だまされた気がせんでもないですね。開発、それから経済成長、それがないと食えない世界になっている。だから、みんなを貢めようとも思わないですが、それに流されなくては生きていけないような仕組みになっておる、それを切実に感じるんですね。かといって、「みんなが駄目だから」とも言いたくないんです。それに乗っからないと、もうみんな生きられなくなっているんですね。しかし、せめてそこで開き直って、「仕方がねえじゃねえか」と言うのではなくて、矛盾は矛盾として引き受ける、ナイーブな心というのでしょうか、それをやっぱり持ってほしいという感じがします。
なかには「じゃあ、お前、どうやって飯食っていくんだ」と言って責める人がいる。そうじゃなくて嘘は嘘だと。しかし、その嘘に乗っからないと生きていけない人たちの矛盾とでもいますかね。宮沢賢治が、動物を食べるのに涙を流しながら食べたという話かありますが、われわれも肉を食わないと、魚を食わないと生き延びられないわけで、それは、矛盾は矛盾として引き受ける。そういうナイーブな気持ちがいるのではないかという感じがいたします。
お聞きしたハンセン病との戦いは、非常に息の長い、大変な事業だと思いますけれども、勇気がくじけて暗くなるということもあるのではないかと思います。
中村 はい、これはですね、そういうこともあるかもしれませんが、 一方で、
この日本の中で、そういう希望が持てるというのは、
非常に幸せなことだという気もするんですね。
たしかに、この仕事をする上で、
小さいこと、大きいこと、
いろんな苦労がないことはありません。
しかし、その中でも
苦労のしがいがあるとでも言いますかね。
それを持てるというのは、いまどき、
わりと少ないほうではないかと思うんですね。
そういう意味ではですね、
わたしは、まあ、