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冲方丁著『冲方丁のこち留 こちら渋谷警察署留置場』を読む

 2015年8月、各マスコミがいっせいに報じた人気作家 冲方丁のまさかの「DV逮捕劇」。この新聞記事を読んだとき、たいへん驚いたのを覚えている。いったい何が起きたのか、わからないままこの5年間、そのことは私の記憶の底に眠っていたが、先日、図書館でこの本を見つけて以来、日本の警察官、検察官、裁判官がいかに堕落したどうしようもない連中なのかということ、そして原発再稼働を認めない判決や最近では、福島の避難者に対する国の責任を認めた集団訴訟の原告勝訴判決などは例外中の例外に過ぎないことがわかった。

 冲方氏は、9日間にわたって渋谷警察署の留置場に閉じ込められたのち釈放、不起訴処分が下された。この体験を通じて、冲方氏が失望を禁じ得なかったのが、世間の常識などいっさい通用しない警察、検察、裁判所の複雑怪奇な実態である。『天地明察』や『マルドゥック・スクランブル』や『光圀伝』を書いたベストセラー作家が世に問う、日本の刑事司法の不条理な現実がこの本を読めば、よくわかる。

 はじめに、担当弁護士に聞いた冲方事件の疑問を引用し、次に本書の終章の全文を引用する。興味を持たれた方には、本書の最後に痴漢えん罪事件を題材にした映画『それでもボクはやっていない』を制作した周防正行監督との対談「日本の刑事司法、諸悪の根源は?」もぜひお読みいただきたい。

   担当弁護士に聞く
       冲方事件の疑問 その11

Q 今回の不当な逮捕劇。これは驚察の勇み足? 
  それとも裁判所の判断ミス?

A 裁判所は捜査機関が逮捕状を請求しないかぎり、通常それを発付することはありません。しかそこの判断を行うにあたり、裁判所が確認するのは捜査機関が作成した資料のみです。今回でいえば、警察が集めてきた資料です。つまり、そこに書かれている内容だけが判断材料であり、この時点では裁判官は冲力さんの言い分を聞く機会さえないのが実情です。そのため、裁判所は、よほどのことがない限り、逮捕状を発付します。「裁判所は逮捕状の自動販売機だ」などと揶揄されることもしばしばあるほどです。その仕組みに問題があることは間違いありませんが、現在の制度を前提にすると、裁判官を責めるのももやや酷でしょう。
 他方、今回は赤の他人同士の間で起きたトラブルではなく、夫婦間での傷害が疑われています。この場合、配偶者を言いくるめて証拠隠滅をはかる可能性も考えられるため、警察が早めに逮捕状の請求に動いたことは、不自然ではありません。あとは、逮捕状を請求する前にどれだけ事実関係を調べているか、です。
 今回の逮捕が不当であったとした場合、逮捕状という制度を悪いと考えるのか、警察の調査不足と考えるべきか、難しいところです。
 他方で、逮捕に引き続いて行われた勾留は不当であったと思います。冲方さんのように仕事も身元もしっかりしている人を引き続き勾留する必要があるのか。この点については裁判所に対しても警察に対しても、疑念が残ります。(水橋)

 終章 この事件が意味するもの

今回の出来事は「人生のひと区切り」

 突然の逮捕、留置場生活を経て釈放され、少しずつ日常生活を取り戻していった私。意外にも仕事面への影響は些少で、今ではすっかり平常運転モードで働いています。
 これまで脇目もふらず仕事に打ち込んできた姿を知る人からは、今回の一件を機に、「少し仕事が減るくらいでちょうどいいのでは?」とも言われましたが、そうならなかったのはやはり幸いというべきなのでしょう。
 身に覚えのないDV容疑で逮捕され、9日間も拘束された今回の一件は、いったいなんだったのか。あれから1年を経た今、あらためて振り返って感じるのは、これは「人生のひと区切り」であったのだろう、ということです。
 正直なところ、まだまだ何があるかわからないという警戒心は残っていますが、それでもこの事態今受け入れることはできたように思います。
 逮捕以降、本書を執筆している現時点まで、私は子どもたちに一度も会うことができずにいます。これは留置場生活よりもつらいことで、街で知らぬ親子連れを目にするたびに、なんともいえない切なさを覚える日々が続いています。
 いわば生傷のように私に苦痛を与え続けているつらい現実ですが、それも当面抱えて生きていかねばならないのだと、私はこの現実を受け入れつつあります。
 むしろ、頑張って働かなければ、愛する子どもたちの生活が立ちゆかなくなってしまいます。そうならないためにも、私は自分で自分を支え、奮い立たせなければなりません。そうした強い意志を保つよう努めてきた賜物か、この騒動がすっかり待ちネ夕として酒の肴になっている今日この頃です。

許されざる警察の巧妙な手口
 そもそもこのようなかたちで一連の顚末をつづろうと思いたったのは、この社会には実に恐ろしい仕組みがまかりとおっているのだという事実を、より多くの方に知ってほしいという気持ちがありました。そして、冤罪の発生が避けられないこのシステムに対し、疑義を呈したい。そんな考えが発端になっており、今では、その事実にとらわれればかえって助長することから、とにかく警察の歴史というものを軽んじ、笑うのが一番だと思っています。
 警察はその気になれば誰でも逮捕することができますし、たとえ無実であっても逮捕されることでどんなレッテルを貼られることになるか、私たちは自衛の意味を込めてきちんと理解しておく必要があるでしょう。
 この社会において、「逮捕」とはすなわち警察にとっての「手柄」であり、被疑者はその時点で「悪人」と認識されてしまいます。これはあらためて考えると、とんでもなく稚拙な連想と言わざるをえず、警察にとって非常に都合のいい図式でもあります。なぜなら、罪の有無にかかわらず、その時点であたかも点数を稼いだかのように扱われるのですから。警察にとって逮捕が「出世の点数」になるのは、国民がそれでいいと認めているからなのです。
 しかし本来、逮捕されただけではまだ、罪について何も確定されません。つまり逮捕の段階では、それまで所有していた権利の一切合財を剥奪される筋合いはないわけです。
 しかし多くの人は、そうした当然であるはずの理屈には思いも至らず、警察に言われるがまま連行され、抵抗するすべも持たずに逮捕、拘束されてしまうわけです。事実、今回の私もそうでした。
 では、もしも今、警察が新たな難癖をつけて私を逮捕しにやってきたとしたら、どう対応するべきか?
 私は可能なかぎりその場で弁護士に電話を入れ、連絡がつくまで警察の要求には一切応じない態度を貫くでしょう。
 なお、現行犯や逮捕状が出ている場合は、問答無用で手錠をかけられて運行されたうえ家宅捜索とか行われる場合もあるようですが、そうした場合でも黙秘権は保障されることを覚えておくといいかもしれません。
 ところが、そういった権利を行使できないよう、さまざまな工夫を講じるのが警察のやり方でもあります。
 たとえば、一般市民が何も知らないのをいいことに、「規則ですから」ともっともらしいことを言って携帯電話を提出させるのも、そのひとつ。強引に没収したとなると彼らものちのちマズいことになりますが、相手が自分から出したものを受け取るぶんには問題ない、というのが彼らの論理なのです。
 普通の人は、まさか警察がそんな巧妙な罠を張っているとは夢にも思いませんから、それがルールなのだと信じて素直に従ってしまうでしょう。警察に対する信頼を逆手に取っているという点で、これは許されざることといえます。
 そして、一度取り上げられた携帯電話は、まず返してもらえません。「弁護士に連絡を取りたいから返してほしい」と言えば、彼らはおそらく、こう言ってくるでしょう。「電話番号を教えてくれれば、こちらでかけますから」と。
 当然、弁護士の連絡先を丸暗記している人など、そうそういるわけがありません。これは通信の自由という、きわめて重要な権利を奪うための手口なのです。
 もちろん、警察のすべての人間が、悪意を抱いているとまでは言えません。しかし、警官が任務に忠実であろうとするモチベーションを支えているのは、出世欲だということを私たちは忘れるべきではないでしょう。
 言葉を変えれば、出世につながる材料を稼ぐためには、手段を問わない人間が警察の中にも一定数存在していることを、私は身をもって体感したのです。

 市民は警察をもっと利用すべき

 逮捕前と逮捕後で、私のなかで警察や国家に対する考え方はずいぶん変わりました。あらたに得た視点のひとつに、「今後は積極的に警察を使ってやろう」というものがあります。昨今、救急車の無駄遣いが問題視されていますが、警察に関していえば、今よりもっと働いてもらうべきだと考えるようになったのです。
 たとえば私は今後、不審な人物が現れたり、髪の毛の束のようなよくわからない物を送りつけられたりした際には、しっかり警察に仕事をしてもらおうと思っています。何か生活まわりで不審なことがあれば、警察にどんどんパトロールの強化を訴え出るべきです警察に相談したにもかかわらずストーカーに殺傷された、などというのは、ひとえに警察の怠慢というほかありません。
 もちろん警察は、あれこれ言い訳し、「余計な仕事はしたくない」という態度を取るでしょう。あるいは相談を[聞いただけで仕事は終わったと言い出しかねません。
 そんな彼らには、内容証明の郵便で訴えを送るなどして、しっかり働かせるといいでしょう。
 また、相談窓口ではきちんと録音し、彼らが働かなかった証拠を押さえておくと効果的です。
 録音すると言うと警察から会話自体を拒否されるかもしれませんので、録音用アプリをオンにした携帯電話を、胸ポケットに入れるなどして、警察と話すといいそうです。弁護士などはしばしばそうしているのだとか。
 そもそも警察機構とは、国民の安全を保証するシステムであるはず。警察も、「自分たちは市民の味方にしてに正義の代行者である」と、税金を使っての大々的なアピールに余念がありません。それでいながら出動を拒否するというのは、誇大広告もいいところです。誉められたいけど働きたくないという子ともじみた考えは、国民がちゃんと叱って正してあげねばなりません。
 その一方で、常に一定の数は存在するという「虚偽告訴」を封じねばなりません。国民がウソをついたり、ただの勘違いで警察を動かし、誰かを逮捕させることが今以上に盛んになれば、国民同士の疑心暗鬼という最悪の状況に陥ります。
 これを防ぐ単純な方法もまた、「警察が働く」ことです。警察が供述主義をやめ、現場検証をしっかり行い、さらにその検証を検証するという体制を作る。もちろん多大な労力を要しますが、これは、一般企業が経営を透明化することと同じです。怠った企業から悪しき体質を抱えることになるのは自明の理です。
 警察がそうしたことをまったくせず、「被害者が言ってるんだから」ということだけを根拠に、機械的にことを進めるという怠慢がまかり通っていること自体、そもそも大いに笑うべきことなのです。
 とはいえ相手は巨大な国家的組織。警察官も検察官も、自己保身ゲームを繰り広げる役人集団の論理には逆らえません。そんな彼らを、国民のニーズに沿って、しっかり働かせる効果的な方法はあるのでしょうか。
 弁護士いわく、警察に働いてもらうようにするうえで最も効果的な方法は、「馬鹿な判決を出す裁判官を、国民がちゃんと批判すること」なのだそうです。
 そもそも裁判官が、「警察が逮捕したのだから悪人だろう」「検察が主張するのだから正しいんだろう」「偉い裁判官の指示に従わないと異動や解任の憂き日に遭う」といった保身のもと、機械的にことを進めるからこそ、「有罪率99、9%」などという数字が成立するのだとか。
 裁判官を批判するには、国民の意識改革も必要です。たとえば「逮捕された人=悪人」とイメージしがちな国民などというのは、法的知識も意識もあまりに希薄である証拠なのです(私もそのひとりであったことを痛感しましたが)。そしてこの国では、裁判官からして同じように「逮捕されたから悪人だ」というイメージを持っており、そのため、警察や検察にとって非常にやりやすい土壌が生まれているのだとか。
 警察や検察が、「どうせ裁判官は認めてくれるといった甘えから、「働かなくていい」という考えに染まっていることを、私は今回、肌で感じました。逆にもし裁判官が大いに働き、司法組織に働けとうながす態度でいれば、警察も検察もとことん働かざるを得なくなるのです。
 結局、われわれ国民が最も働かせるべきは、裁判官なのだということになります。
 そしてその裁判官に期待すべきことは、『それでもボクはやってない』で周防監督が提示しているように、「ひとりの冤罪も生み出さない」ことなのです。8割の犯罪者を捕まえておくために、「だいたい2割は冤罪」という状況を、ほかならぬ裁判官が黙認するなどというのは、国家的喜劇というほかありません。
 留置場の中で出会った人々の話を聞いていると、冤罪を主張する者は少なくありませんでした。もちろん、すべてを鵜呑みにするわけではありません。彼らの中には相当な数の悪質な人間がいます。
 しかし考えねばならないのは、法律ゲームを駆使すれば、誰をも犯罪者に仕立てあげることが可能である、ということです。たとえば別件逮捕という言葉があるように、駐車違反や立ち小使など些細な容疑だとしても何度も繰り返し逮捕するうちに、たまたま有罪に持っていけるような案件が出てくることもめるでしょう。そのため留置場内には、とりあえず「何か引っかかる部分」を突っ込まれ、問答無用で閉じ込められてしまった人たちがごまんといます。本書の基になった手記を、『週刊プレイボーイ』誌上で連載していた最中に、1通の便りをいただきました。差出人は某拘置所に収容されている人物で、連載を毎週楽しみに読んでくださっているという方でした。
 詳細について触れることはできませんが、手紙の主は、冤罪にもかかわらず有罪判決を受け、今まさに戦っている最中とのこと。その文面からは、裁判所への強い失望と絶望、そして悔しい思いがありありと伝わってきます。
 これは他人事ではありません。こうした人物が正しく報いられるためにも、まず私たちは、現代日本の裁判所の実態を、笑いに笑い飛ばすべきなのです。

 このシステムに改善策はあるのか

 冤罪被害を出さないためには、どうすればいいのか? 真面目に考えれば考えるほど、非常に難しいことと思われます。しかし、難しいからこそ優れた人が専門知識を駆使して防止すべきなのであって、「難しいんだから仕方ない」という態度は失笑に値するとみなすべきでしょう。
 一方で、私のような素人ですら明白なこともあります。
 もちろんそれは、本書で紹介した馬鹿げた留置場のあり方を変えることです。自白させるために密室に閉じ込め、通信の権利を奪うことをやめる。ゴリラの群の示威行動みたいな警察官たちのみっともない行為をやめ、小学生のカードバトルかと思うような手札の隠し合いをうながす供述主義をやめる。そして、「罪を認めれば、すぐに釈放されるし、警察官も点数稼ぎになり、WINWINだ」という、わけのわからない大前提を改めるべきです。
 それよりも、留置場に常駐させられて無為に時間を奪われている多数の警察官に、もっと有意義な業務と教育の機会を与えるべきでしょう。正直、被疑者の移送業務や、朝の点呼のお祭り騒ぎには、「このマンパワーの盛大な無駄遣いはなんなのだ。彼らには自分たちが無駄遣いされ、無為に年をとらされているという自覚はないのか」と呆気にとられたものです。
 一方、弁護士協会の努力により、被疑者には弁護士との打ち合わせでノートを取ることが許されるようになったとか。私もノートには助けられました。こうして手記をつづることができているのも、当時、懸命に記したノートのおかげです。そう考えると、少しずつこの国の司法は改善されているのであり、だからこそ私は喜劇としてとらえるべきだと思うのです。もしこの国の司法には悲劇しかないと思えたときは、さっさと住むべき国を変えるほかありません。
 現在、かろうじて喜劇だと思いつつも、悲劇の一歩手前だと思わされたことのひとつが、「最も悪い人間は留置場にはいない」という実感に襲われたことでした。
 前段でもふれましたが、司法の世界すなわち法律ゲームである以上、その仕組みを熟知している人ほど有利であるのは紛れもない事実です。留置場内で出会った人の中には、「仲間」に売られるような形で逮捕された人も散見されます。私は彼らから、「本当の悪人がどのようにしてスケープゴートを立てるか」について、いろいろと教わりました。
 ここでその詳細を列挙してしまうと、本書が結末部分に至って「いざというときの身代わりの立て方マニュアル」と化してしまうため、あえて伏せたいと思います。なんであれ法律ゲームに長けた人々は、逃げ道を用意し、別人を逮捕させ、罪を逃れるのです。
 さらにはそういった偽装を、営利目的で行う人間(あるいは企業)もいます。私が留置場内で、訴えの取り下げを条件に金銭を求められたように、「出たければ金を払え」という、警察を使った代理誘拐が、想像していた以上に頻発していることを私は知りました。
 そんな被疑者にとって最悪のシナリオは、拷問のような留置場の環境に音をあげ、犯してもいない罪を認めてしまったうえに、金銭を支払わねばならなくなり、さらには社会的に汚名をこうむり、その後も長い間、経済力を失ったまま生活せねばならなくなることです。
 警察が結果的に、罪を逃れる人々や、金銭目的で刑事裁判を悪用する人々に荷担してしまっている今の状況は、とても危険であり、解決不能の悲劇をもたらしかねません。
 ゆえに、司法組織や法制度についての難解で伝統的なぐじゃぐじゃした議論はさておき、「冤罪はどうせなくならないし、むしろあっていい。だから、留置場にいる人間が本当に罪を犯したがどうかは知ったことじゃない」という態度をこそ何よりもまず笑うべきなのです。

対岸の火事ではないすぐそばにある「逮捕」

 法律は、新たにつくることはできても、無くすいけ難しいものです。だからといって、司法組織は変わらなくていい、という’)とにけ々ら々いごしょう。司法に関わる人たちはみな程度の差はあれ、「自分たちが法律だ」と思っているふしがあります。倣慢そのものであり、国民としては笑止のきわみとみなすべきでしょう、
 その一方で、可法組織に属する人たちは「公僕」として、どんなブラック企業の社畜にも負けないほど苛烈な階級社会のストレスにさらされています。裁判官からして、出世レースから外されることを恐れ、常に上の意向を気にし、異動や解任の憂き目に遭うのではないかと萎縮させられているといいます。
 そうした階級社会のストレスを国民にぶつけるがごとく「ここは私の法廷です」というような言梨を平然と口にする裁判官、「俺らをなめんなよ」と吠える警察官、「(私の立場が)取り返しのつかないことになるでしょ」と自己保身をあらわにする検察官など、これまた大いに笑い倒してやるべき存在なのです。
 そしてなによりこの国には、司法組織がそのように硬直していることをよしとし、あるいは無知のまま自分とは縁のない世界だと思い込んでいる、大多数のわれわれ国民がいるのです。
 警察が人権無視の暴力的な組織であることに、ひしろひそかな喜びを抱き、「逮捕されるような悪人はひどい目に遭え」という短絡的な考えを疑わないわれわれ国民も、さらにはその思念を増幅させて派手に演出し、自分たちは正義であって悪はいじめ倒すべきだと思わせてくれるマスコミやエンターテインメントの数々もまた、大いに笑うべき存在なのです。
 もしそれらを笑えないとすれば、それはわれわれが生きる社会が、道徳的どん詰まりに陥っていることを端的に示しているといえます。社会そのものが笑えないものと化し、いよいよ奉仕する価値もなければ、受け継がせるべきでもないしろものに成り下がったとみなすべきでしょう。そしてその責任は、社会で生きるわれわれ全員が等しく背負わねばならないのです。
 どうか、ここまでにつづった顛末を対岸の火事とせず、ぜひ読者のみなさまにおかれましては、我がことのように失笑し、大いに笑っていただきたい。そうすることによってまずは硬直した自分自身の心を転覆させ、より良い暮らしができる社会とはどのようなものかと想像し、ひとりでも多くの笑いの中から、この国の未来が生まれてほしいと思っております。

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