ブログが書けない恐怖。その傾向と対策
12月がやってきた。
私はこの季節が嫌いだ。
不思議なもので12月に入ると世のソフトウェアエンジニアが嬉々としてブログを書く。そのせいで素晴らしい技術指南や名文がそこいらに溢れかえり、何も生み出していない自分は世界から一歩も二歩も置いていかれる。毎年のように悲惨な気分になってしまうのである。
何も卑屈になっているわけではない。私とて学びを発信して注目を浴びたり誰かの役に立ったりしたいと、そして少しばかり自尊心を満たしたいと大いに思っている。だが書けない。生み出せない。だから悲しんでいる。この恐怖に近い感情は11月の中頃から少しずつ鮮明になり12月になると屈辱へと形を変える。
この気持ちと戦う方法はひとつ、書くことだ。書ききって恐怖や屈辱という名の獣を倒すしかない。
ヌーラボブログリレー2024の栄えある1日目として、なんとかしてブログを書く技術について書いてみる。このnoteが同様の気持ちを抱える人に向けて、せめて傷の舐め合い以上の何かを残せることを願う。私はソフトウェアエンジニアなので主に同業者を想定しているが、異業種の方にも読んでいただけるとありがたい。
初めに、ブログを書きたいのであれば以下を試してほしい
熱いコーヒを淹れて水筒に注ぐこと
水筒以外の荷物は持たずに片道15分程度のできるだけ静かで好きな景色の場所まで歩くこと。そこでのんびりコーヒーを飲むこと
次の事柄について考え続けること
「過去の自分にアドバイスをするならば何を伝えるのか?」
「3ヶ月、半年、1年、3年、5年前ならどうか?」
デジタル機器を介して届く余計な情報を取り入れずに歩くことが重要だ。各種通知など今からあなたが生み出す文章の影響力に比べれば些細なものだ。余計なものから自身を切り離して、空や草木、流れる風を感じながらただ考える。
アイデアが出たのであればこれ以上読む必要はない。ハートのアイコンを押下した後に閉じていただいて結構だ。今すぐキーボードを叩いた方がいい。
もし、それでも何も頭に浮かばなければ、あるいは思い浮かんだ事柄たちをすでにブログ等に残しているようであれば罫線以下を読んでほしい。
おかえりなさい。残念ながら新しい何かは浮かばなかったようですね。
このような状況は実に辛い。現に今、私は辛い。
今は12月1日の午前7時。書けない書けないと悩み続けるうちに投稿日の朝が来てしまった。無力感に苛まれる12月はもう嫌だとブログリレーのトップバッターに名乗りを上げたものの、完全に書けない恐怖に打ちのめされている。寝起きのせいもあるが随分と口の中が渇いている。
本来であればこにふぁー氏のように日々の気づきをメモしたり、そーだい氏のように日報を書いたりして、アイデアの種を育てながら書くのが理想だ。
もちろんそんなことは百も承知だ。
ブログが書けないと相談を受けたら「日々の気づきを残したらいいよ」と私だって同様のアドバイスをする。
だがそのような日々の積み上げをしていないくせに、今この瞬間にブログを書かければならず、アイデアが出ないと悩んでいる。理解しているものの実行はしない自身の怠惰さを棚に上げて、うまくいかないと被害者面をしているのだ。我ながら傲慢だとは思うが締切は待ってくれない。
さて、嘆いていても仕方がないので「書けない。思い浮かばない。うぁぁぁ」といった感情を分析してみる。
書けない時の思考、苦しさ、恐怖について
私が「何も書けない!」の感情に襲われている時、大抵が以下の思考や感情が渦巻いている。列挙する。そして簡単な処方箋も置いておく。
素晴らしいものを生み出したい、評価されたい、多くの人に読まれたい
結論から言うと期待値が高すぎる。乱暴な言い方をするとプライドが高い。
私は数多のアイデアたちを「これは大した内容じゃないな」と判断し自身の手で埋葬してきた。
この思考は間違っている。ブログの良し悪しを評価するのは読み手側であり自身ではない。きっと、ひとまず世に出してみる、が正しい。実際に宮沢賢治やモーツァルトも傑作と同時に沢山の「??」な作品を生み出している。
と書いたところで、この悩みを抱える大半の人には響かないだろう。私だってそんなことは重々心得ている。
仕方がない。私はプライドが高く、できれば多くの人に読まれたいし評価されたい。性格の問題だ(いや、本当はきっと違うんだがどうしようもないんだ)。この文章だって最低一万回読まれ、多くの迷える子羊たちの救いとなり、Xではリポストの嵐になることを妄想しながら書いている。
人前で話す時はその場にいる一人に届けばいいって気持ちで臨めるのだが、ブログはなぜか違う。こう、肩に力が入るというか、文章によって名声を得たい気持ちが溢れてしまう。だから自身が傑作と思えるもの以外投稿したくないのだ。
そんな人間だから文章を書くことが怖く苦しい。
自由に気軽に書いて投稿しなよってのが処方箋になるんだろうが、今の私には効きそうにない。
他の人がもう似たようなことを言ってるしなぁ
例えば外界から遮断された世界の中にいて私が新米エンジニアの教育係だったとしたら、恐れもなく私は社内イントラにでも技術ブログを書き続けるであろう。
しかし、現実にそんなことはない。よちよち歩きの駆け出し君もすぐに先輩の教えよりも本質的で素晴らしい情報に辿り着く。インターネットの普及によって口伝の価値、先輩の言葉の重みは薄くなってしまったのかもしれない。
そういえば、ゲームクリエイターの桜井さんがゲームの作り方や仕事の心得についての動画をYoutube上で公開している。その数260本。
いくつかの動画を見て「私が語ることなど何もない」と絶望した。衝撃だった。
仕事の本質が可愛らしい映像とともにわかりやすく簡潔にまとめられていた。何より圧倒的に面白い。ビジネス本や技術書の最大の壁である「なんか小難しくて疲れる」をポップでキュートな楽しさによって軽々と飛び越えてしまっていた。
私はこれらの動画たち以上にわかりやすく本質的な何かを伝えられる気がしない。今後教育担当に任命されるようなことがあったなら、ことあるごとに「桜井さんのXXの回を見たらいいよ」と伝えるBotになろう。
日々読書したりSNSを徘徊していると似たようなことがたくさん起きる。
次第に何かアイデアが湧いたとしても「すでにあの人が書いてるしなぁ」で文字に起こすのをためらってしまう。そう、やはり書けない。
このケースに対する処方箋としては「別にそんなことは気にせずに書けばいい」である。
抽象度の高い仕事であるほど多分本質的な部分は似通ってくる。
しかし現在では情報が多すぎるゆえに本質に辿り着くのは難しいこともあったりする。誰かがすでに書いていたものだとしても、読者の初めて学びがあなたのブログであれば、彼や彼女にとってはオリジナルたり得る。それでいいじゃないか。
とは書いたものの、やはり私はプライドが高くへそが曲がっているためそんな言葉では納得できないのだ。誰かの二番煎じであることを自覚しながらブログを書きたくない。困ったものである。
「本質的な部分は同じでも加えてあなただけの経験を書けば、それはとても価値があるものなのよ」なんて優しい言葉をかけてくれる人がいるかもしれない。
そんなことはわかっている。間違いなく、全くもって、その通りだ。
むしろ誰かが言っているなんて気にする必要もない。そんなことを言い出したら大抵のことは古代ギリシャの賢人たちが唱えてしまっている。だから本当に意味のない悩みなんだ。
それでもなんか嫌なのだ。
イヤイヤ期なのかもしれない。
なぜブログを書けないことが負の感情へと繋がるのだろうか
ここまで書いて気がついたことがある。
私はなんやかんや言い訳をすることで、何も書こうとしていないだけだ。それに尽きる。
ではなぜ様々な言い訳をしてまで避けているくせに、ブログが書けないこと自体に恐怖や悲しみのような負の感情が生じるのだろうか。そんなに嫌なら書こうとなんてしなければいいのに、と考える人もいるだろう。
ブログを書かないことも嫌なのだ。
他者から何も生み出さない人間だと思われるのが嫌であり、自身としても日々の大半をエンジニアリングに費やしているくせに何かを残せない事実が許せないのだ。怒りに近い感情かもしれない。
20年ぶりに読んだライトノベルにこんな言葉が書いてあった。
そう、つまり、自身の不甲斐なさに苛立っている。
締切直前まで言い訳を並べて着手しないくせに、皆に評価される素晴らしい品質の自身のオリジナルかつ傑作がすんなりと生み出せないとなると己は不甲斐ないと怒っている。
わがまま過ぎる。自意識過剰も甚だしい。本当に面倒臭い人間である。我が子を見てよく思うのだが、多分私の精神構造は3歳児と変わらない。
散々っぱら書きたくないと嘆くのだが、
完全にブログから逃げるってのもそれはそれで悲しいものだ。
気がつくと己の偏屈さを書き殴って4,000字に迫っていた。果たしてここまで読んだ人はいるのだろうか。もしも共感している人がいたら驚く。あなたも大変ですね、多分結構生き辛いですよね。ぜひ友達になりましょう。
会社の名を冠するブログリレーのトップバッターがこんなのでいいわけがないのだが、もはや後には引けない。ここから技術ブログらしく、技術的なあれやこれやを書いてなんとかするしかない。
なんとかしてブログを書く技術
ブログを書けない思考について長々と述べてきたが、実は何一つ本質に迫るものではないと思っている。書けない言い訳も、それに対する処方箋も多分意味はなく、真実からは程遠い。
というのも、ブログは感情の揺れや情熱によって生まれるものだ。考え抜いて書くものではない。頭の中が言葉でいっぱいになって、どこかに吐き出さずにはいられない衝動。それをただ自分のために吐き出すものだと私は考えている。
だからきっと、ただ衝動が足りないだけだ。
頭の中を言葉でいっぱいにする必要がある。
衝動や情熱や葛藤や不平不満のようなものが溜まりに溜まった結果、文字としてこぼれ落ちたものがブログだ。
頭の中を言葉でいっぱいにする方法をいくつか挙げてみる。
これが私なりのなんとかしてブログを書く技術だ。
人と話す
やはり誰かと話すのが一番効く。端的にブログが書けないと切り出してもよいが、最近の仕事で困ったことや、同僚ならこの数ヶ月の振り返りを一緒にやってもいい。些細な会話から思いがけぬヒントが降ってくることがある。
個人的には勉強会やカンファレンスの登壇者と会話するのが好きだ。アイデアがどんどん湧いてくる。感情が揺さぶられる。
昨日アクセシビリティカンファレンス福岡2024に参加した。中でも「誰のためのアクセシビリティ」の著者である田中みゆきさんの講演が衝撃的であった。己の無知と傲慢さが恥ずかしくてたまらなくなり、開始1時間で今すぐに島根に帰ってこれまでの人生を悔い改めたい衝動に駆られた。懇親会では歓談中にも関わらず突然背後から声をかけ昂る気持ちをぶつけさせていただいた(実に挙動不審だったので多分田中さんは怖かったと思う。この場を借りて謝罪したい。すみませんでした)。
このような出会いがあると感情と言葉が溢れる。何かをやらなければ、今この瞬間を言葉に残さなければと駆られる。珠玉の傑作にならなくとも書き上げねばと今文章を書いている。
人との出会いは眠っている感情を呼び起こさせる。
ただ、時間がかかる。あと数時間で書き上げなければならない時にはこの手は使えない。今回はたまたま素晴らしい出会いがあっただけだ。
本やブログを読む
常日頃から様々な考えに触れることが大切だ。技術以外の分野でもいい、他分野に触れる方が新しい発見があったりする。私自身登壇のテーマは哲学や歴史から着想を得ることが多い。
何を読んだらいいのか分からなければ騙されたと思って論語を読んでほしい。最高の書物だ。それすら面倒だったら私の論語ブログでも読んでいただきたい。急に中国古典を紹介されて戸惑うだろうが、論語が好きすぎるために隙あらば布教してしまう癖が出ただけだ。
このnoteはあまりにブログのネタが思いつかなかったため、ライトノベル「NHKにようこそ!」を現実逃避のために読んだそのテンションで無理やり書き始め、田中みゆきさんの講演を聞くことで爆発的に筆が進んだ。随分と鬱屈して散り散りな文章になっているのはNHKにようこそ!の影響であるためご容赦願いたい。とにかく20代の頃のやり場のない感情が急に蘇り爆発したため、ブログが書けない焦燥感と結びつけて無理やり吐き出している。
とにかく、なんでもいい、いろんなものに触れるのがいい。
実は似たようなことをもっと簡潔に桜井さんが言ってるんだよなぁ。はぁ。
ただ、時間がかかる。運よく一瞬で最適な本やブログが見つかればよいが、あと数時間で書き上げなければならない時にはこの手は使えない。
仕事のやり方、仕事内容、環境を変える
人と話したり本を読むことで実践したい内容が見つかれば、さっさと取り入れたらいい。きっと日々考えることが出てくる。ブログだって書ける。仕事のやり方は割と簡単に変えられる。変化を恐れるな。やればわかる。やらなければ一生わからん。
次項からいきなりハードルが上がったと驚かれるかもしれないが、日々の時間を捧げている仕事について試したいことや吐き出したいものが何もなく、あれこれ考えても浮かぶものがないのであれば。そしてその状況を自身が好ましく思っていないのならば仕事の内容や所属を変えてもよいかもしれない。
このnoteは成長と変化を求めてやまないソフトウェアエンジニアをターゲットに書いている。多分そういった人たちはブログに吐き出す内容が一つも出てこない状態を良しとしないだろう。
私自身、子どもが生まれてから頭の中を飛び回る文字列たちが、仕事の言葉からミルクやおむつ、機関車トーマスなどに置き換わってしまった。読書量も劇的に減り、新たな取り組みへの意欲も低下した。そんな日々が長く続き、ある時ブログが書けなくなったことに気づき絶望した。私は枯れてしまったと。カンファレンスで華々しい登壇やキャリアアップを重ねる友人の姿をSNS上で見かけるたびに、どうにか単身赴任でもして仕事一色の生活ができないものかと考えた。
しかしまあ子どもってのは手がかかる。離れるわけにはいかないし何より可愛くもある。子どもとの時間も大切だよなと折り合いをつけて、どうしようもないので苦し紛れにブログが書けないって話を綴っている。
そんな時期があってもいいよな。songmuさんのブログにも慰められた。
それはさておき、ここ一年くらいは経験の貯金によって仕事をこなせる状態が続いている気がする。現に大きな混乱や苦痛は生じていない。これはカオスな状況を好む私にとって健全とは言い難く、どうにかしたいと常々考えていた。どうすればよいのか分からないまま「なんかもっとしんどい仕事がしたいんですよー」と色々な人に話してたら、少しばかり新しいことに取り組めそうだ。
口に出してみるのは大切だ。まずは社内で、それが叶わなければ別の環境に身を置くと嫌でも頭の中がいっぱいになるだろう。するすると日々のブログが流れ出るかもしれない。
ただ、時間がかかる。あと数時間で書き上げなければならない時にはこの手は使えない。
結局どうしろってんだ
長々と読まされた挙句、紹介しているのは時間がかかる手法ばかりではないかと憤っている方もいるだろう。残念ではあるが、結局のところブログはよし今から考えて書くぞ!ってもんじゃあない。
日々の取り組みの結果や心の揺れがテキストの形で顕在化しているだけだ。
冒頭に記載した通り、日々を振り返りながら散歩でもして頭の中で言葉をブクブクと増幅させ、溢れ出したものをかき集める方法しか私は知らない。
だから締切直前になって焦ったところで、なーんにも出てこなければ仕方がない。書けないものは書けない。
結論としては、多様な価値観に触れながら日々を過ごすこと。毎日考え続けなければいけない仕事環境に身を置くこと。時々振り返って過去の自分と向き合うこと。といったところだ。
私の場合は、考え抜いた結果どうしてもブログが書けないって感情の増幅が止まらなかったため、当事象の理由や傾向の分析、対策の立案、そして投げぱっなしの結論を書くに至った。正直なところ少しばかり申し訳ないと思う。
弊社ヌーラボには素晴らしいエンジニアが沢山いる。明日以降のブログは貴重な学びをもたらしてくれるはずだ。だから、これに懲りずにヌーラボブログリレーを読み続けてほしい。
なんだかんだと屁理屈を並べてみたものの、書き終わってみると存外気分がいいものだ。相変わらずナカミチってやつはいい文章を書くなと悦に入っている次第だ。追い詰められて衝動的に書いたので途中から恐怖や何やらを感じる暇もなかった。
しかし、恥ずかしながら評価されたいって気持ちはそれなりに残っており、ナカミチさんのおかげでブログが書けそうです/書けましたって感想が山のように届くことを心のどこかで期待している。やはり私は自己愛が強いようだ。
この怪文書じみたnoteが何かを与えられるとしたら「じきに40歳になる人間だってこんなものだから安心しなされ」くらいかもしれない。
俺のプログラミング技術すげー、私のマネジメント術いけてるっしょ、くらいの自己満足上等の内容でいい。だってブログは自分のために書くのだから。そっと過去の、そして現在の自分と話してみたら何か出てくるかもしれない。
だからまあ気楽にさ、ブログ書いてみなよ。なんて無責任な言葉をもって文末とする。