悪人だからこそ赦される。
最近は「赦し」についてよく思い巡らせる。
犯罪、暴力、差別などにおいて、被害者救済、反差別を叫ぶ人がSNSで発言するのをよく見かける。加害者、差別者を糾弾し、問題提起することに間違いはない。全く正しい。そこにあるのは「正義」である。「正義のない愛は無意味」「正義と愛は表裏一体」だという言葉を聞くこともあるし、それも全く正しいと思う。
しかし、それらの「正義」の主張にいまひとつ乗り切れない自分がいる。「正義」を主張する人は、被害者目線で言葉を発する。しかし、自分はどちらかというと加害者目線でものを考えてしまうのである。それは、どちらかというと自分は加害者であり、差別者であるという自覚から、どうしてもそうなってしまうのである。
自分は今まで、取り返しのつかないような傷を人に負わせてきたし、差別やハラスメントを言葉や行動に表すことは無くても、そのような思いが内面に全く無いかというと、そういうわけではない。そういう事に対する罪意識や自責の念がある。
そして、「差別を赦さない!」と声高に主張するコメントを見ると、「自分には到底そんな主張はできない」「この人は自分が完全に被害者に寄り添えていると自分で思っているのだろうか?」と思ってしまう。もし、その人が今までも、今も、一切差別的な思いや他者に対する敵意が無いのなら、それは結構なことだとは思うが。さぞかし立派な人なのだろう。
しかし、自分が関心を持っているのは、加害者への赦しと自己変革への促しだ。そういう意味では加害者に寄り添いたい。加害者がなぜそのような加害をするに至ったのかを理解し、それを受け止めて、赦しへと導きたい。ただ反撃されるだけではなく、赦されているという安心が無ければ、人間は本当に悔い改めて、自分を変えることはできないのではないか。
『歎異抄』には以下のような言葉が収められている。
親鸞が「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄第3章)
「善人が救われるのだから、悪人が救われるのは当たり前だ」と言ったところだろうか。通常の感覚では、「善人こそが救われるのであって、悪人は救われない」だろう。それがこの世の正義というものだ。しかし、この親鸞の教えは常識的な感覚ではない。
『新約聖書』には以下のようにイエスが言ったと伝えられている。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)
罪を自覚している者だけではなく、罪の自覚が無い者も赦してくださいと神に祈っているのである。これも常識的な感覚では理解できない。
この世の論理では、犯罪や差別は処罰や賠償、謝罪といった形で責任を取らなくてはならない。そうやって加害者は裁かれなくてはならない。当然のことだ。しかし、心から自分の悪と向き合い、悔い改め、自分を変えたいと思う人には、何らかの「安全基地」(Secure Base: ジョン・ボウルビーという人が広めた用語らしい。本来は子どもが養育される時の理想的な環境のことである)が必要だ。そして、それが人間を超えた存在からの「赦し」なのではないだろうか。
この「赦し」は居直りのための逃げ場所ではない。この「安全基地」の中でこそ、加害者は自分の悪と向き合い、そこから立ち直る時と場を与えられる。そのような時と場に、自分は専ら関心を持っている。自分自身も加害者であったし、今も幾分かはそうであるという自覚があるからだ。
繰り返しになるが、被害者救済、反差別の主張は全く正しい。しかし、加害者性を持つ自分はそれに参加することに羞恥心を覚える。むしろ、自分と同じ加害者に寄り添いたい。加害を正当化するのではなく、もうこれ以上加害しないために立ち返る契機をどうやって確保するのかということに関心がある。
「正義」に立つ者は、もはや赦される必要はない。赦される必要があるのは、悪人であり罪人だ。再びイエスの言葉を引用する。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節)。
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