ケア
あなたにとってのケアとは何ですか?
『ケア宣言 相互依存の政治へ』を読んで、ケアについての理解が深まった。それと合わせて、個人的な大きな気付きとして、対人スキルの商売を何となく肯定しにくい自身の気持ちに対して言語化した理由の一旦が得られた気がしている。
ケアの歴史の中で、男性社会においてケアは女性のなすべき仕事であり、その位置付けも低く見られていた。ここまではフェミニズムの勉強などでも理解できていたところだった。そこから、資本主義と新自由主義が跋扈する社会となることで、このケアの仕事も資本化された。この際に、もともと低い位置付けの仕事であったため、その労働価値も低く見積もられ、ケアワーカーの低収入になっている。また、その社会の中で格差が生じることで、ケア自体を受けられるかどうかが経済面だけで決まってしまい、持たざる貧困層はケアを受ける機会も得られない構造になった。
また、ケアに関しての構造として、与える側と受け取る側が存在し、双方においてメリットを感じる反面、葛藤や軋轢を強く受けるため、複雑な行為だということが述べられていた。この葛藤や軋轢のデメリットをなくし、メリットを享受するために、ケアワークが資本化されたことも記載されている。ただし、葛藤や軋轢を乗り越えて得られる貢献感や達成感を放棄し、資本化をしたことで、その質も下がってしまい、人間関係ではなく、単なる経済活動になってしまった。
上述のような構造は、あまりこれまで考えられて無かったので良い視点を得られた。その中で、核家族化が進む社会では、ケアの対象が家族になりがちだ。ただ、家族になると責任も大きくなるから、葛藤や軋轢も大きくなりやすく、貢献感などを得られるメリットよりも、疲労感や無力感を大きく感じてしまうのだろう。だからこそ、家族以外のコミュニティによる緩い相互依存の社会が必要であり、本著の提案でもコスモポリタニズムの実現で終わっている。自立/自律と相互依存は、課題の分離をしっかりとしつつ、相手を尊重し関心をもつことで両立できるように感じているのだが、一方で新自由主義下での競争社会では容易にトレードオフになることも想像できるため、社会構造が変わらなければ解決できない問題なのかもしれない。
本著の中では、コミュニティを形成し真の民主主義に取り組んでいるバルセロナなどいくつかの事例も挙げられていたし、改革に向けてボトムアップの草の根から本格化した活動の事例も書かれていた。だから、社会が変わるのを待つのではなく、社会を変えることも出来るという前向きな側面も見えた気がする。
ちょうど、今朝この本を読んでいる時に、駅で泥酔して意識もなく、椅子からずり落ちて蹲っている人を見かけた(最初は泥酔とはわからず、病気かもと思った)。周りの人は気付いていても、見て見ぬふり。これが日本の現実だと思いつつ、少し勇気を出して駅員に声を掛けて対応をお願いした。駅員も戸惑いつつ、上司の指示を仰いで、上司の方が見本を見せるように声掛けをしたら目覚めた。その後、「こんなところで寝てたら危ないから、ひとまずホームから出よう」ということでその場から連れ出していた。これを見ていて、駅員の仕事も、実はケア的要素が強いのだなと改めて感じた。我々の安全のためにホームの安全を維持し、時には個々人とも向き合う。
少しは良いことをしたと思った反面、自身で声掛けして動かすところまでは行動に移せなかった。その時の数秒は、確かに自分は葛藤を覚えていた。ケアの葛藤というものも理解出来た一日だったが、この葛藤を一人で抱え込むのではなく、周囲の仲間や社会のみんなと希釈して分かち合えれば、本当に楽に生きられるのにと改めて感じた一日でもあった。
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