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何故書くのだろう?
昨日、転職前の最終出社が終わった。
最後の一言では、涙腺が緩みそうになるのを我慢しながら、「人には無限大の可能性がある」といったことを話した。
ただし、その前日の夜の送別会では泥酔して、かなりみっともない話を色々としていたらしい・・・自分では記憶が無かったのだが、会社を退社する時に初めて知って、かなり恥ずかしい限りだ。
まあ、こういうことを笑い話にできるくらいの関係性が築けたという点で、充実した一年だったと言えるのだけれど。
そして今日。転職の狭間でどこにも属していない不思議な感覚の一日。
永井玲衣氏の『世界の適切な保存』を半分ほど読み進めた。
そして生まれたのが表題の問いである。
「私は何故エッセイを書くのだろう?」
「私は何故五行歌を創り続けるのだろう?」
今この瞬間を保存しようとして、それを何かの形で残したとしても、自分も他者も変化して記憶も変化するから、完全な保存には至らない。
本著の根底にはそのような考えがあるのだろうと、自分なりに解釈してみたが、最後まで読み進めた上で、改めて考えてみたい。
しかしながら、生まれてしまった問いに対して、何らかの対処をしないと気持ち悪い。
昨日感じた恥ずかしい気持ちをどう咀嚼していいのかも分からない。
忙しい毎日が始まれば、そのうち忘れてしまうだろうことを、わざわざ文章や歌にするのは、結局は今この瞬間の思考や感情を保存したいだけなのか?
でも、何故保存したいのか?
私の文章にも歌にも、何らかの不完全な自分が滲み出ている。
私は自分の弱さを再認識したいのかもしれない。
それを誰かと(未来の自分も含め)共有して、何かの変化に繋げたいのかもしれない。
書きながら出てきた暫定解。
でも、まだ腹落ちには至っていない。
この問いとは引き続き向き合うことになりそうだ。
どこにも属さない、狭間の一日。
だからこそ、こんな問いが生まれ、こんな文章が生まれたのかもしれない。
新たな問いを抱えながら、次週からは新天地での仕事が始まる。
どんな解が見つかるだろうか?どんな問いと出会うだろうか?
人生は出会いと別れだというけれど、それは人や場所だけでなく、問いも一緒だ。
そんなことを思いながら、今日が緩やかに過ぎていく。