線路
この線路はどこまで続くのだろう?
小学校低学年くらいまで、父親と二人で電車に乗るのが好きだった。必ず一番前の車両に乗って、その窓から運転手越しに線路を眺める。直線でスピードに乗っている時もあれば、カーブで減速したり信号が赤で停止したり。停車駅が近づくと寸分違わず止まる仕組みを不思議に思って眺めたり。そうこうしているうちに、終着駅にたどり着き、線路はそこで終わりを迎える(環状線はその限りではないが)。実際の路線では線路はどこまでも続かない。
最近、社会課題を色々と調べている。もともとは会社の研修でビジネス提案をすることから始まったのだが、将来予測の本を読むうちに様々な社会課題を知り(もしくは改めて認識し)、貧困・格差、人権、地政学、マイノリティ、高齢化、食糧問題、森林破壊、海洋汚染などに興味を持つようになった。持つようになったと言えば聞こえはいいが、実際には、考えずにはいられないし、気になるから新たな著書を読んだり検索をしたりしてしまう状態である。課題は様々に絡まりあって複雑で、かつ深く知れば知るほどに解決も難しさを感じる訳で、なかなか明るい話題にはなりにくい。
上述のような状態なので、オリンピックを見ていても、どうしても人権、政治、国家間対立などともセットで考えてしまうため、無邪気に楽しむのは少し難しかった。コロナの中で経済と政治のはざまで行われたことも要因としてはあると思う。だから今回はダイジェストを少し見た程度で、殆ど観戦もしなかった。
人間の知性や記憶は不可逆だから、知ってしまった以上は忘れられない。それがアンカーとなって価値観が形成され、フィルターとなり様々な事象を捉えるから、知らなかった時のように感じることは難しい。こういう時に、「難しいからいいやっ」って課題を投げ出すことができたらどれほど楽だろうか。そう思うことが多々あるが、何か関心を持ったら調べずにいられない性分は昔からだし、こればかりはどうしようもない。自分が気が済むまで調べてみようと思う。知識という線路は、終着点を知らずに、どこまでも続いていく。
いずれ知識と知識が結びついて、課題をより大きな枠で捉えられるようになれば、より効果的な施策が思いつくかもしれない。そんなことを考えながらも、すぐできることとしてクラウドファンディングでの応援等をしながら、知らずに加担してしまった数々の社会課題に対して自分なりの罪滅ぼしをしている。すくなくとも、自分が生きたことによって、課題が悪化しなかったら良いかなと思う。
いずれは空飛ぶ電車のように、線路から飛び出して、大空から世界を眺めるように課題を掴んでいく。そうなるためにも、今は地べたでどこまでも続く線路の旅を、続けていければ良いかなと思う。
(気晴らしに一枚)