不在

不在にどれだけ気付けるか?

「〇〇さんは出張中で不在です。」日常会話で不在といったら、このような物理的にいない状態に使われるようなケースが多いと感じる。ただ、ここで述べたい不在は、そもそもの存在を認識されているのかどうかといった意味での不在である。

不在の概念を意識したのは、10年頃前に読んだ、辻村深月氏の『凍りのくじら』を読んだ時が初めてだったかもしれない。SFをもじって「少し不在」と自身を位置づける主人公。その心の機微が描かれた面白い作品だった。辻村深月氏は同年代で、描写される内容も親近感が持てて、初期の頃のトリックも面白かったし、最近では人物の心理的描写も磨きがかかっており、ほぼ全作読んでいると思う。個人的にはかなりおすすめの作家である。

話が逸れたが、不在の概念を認識することは意外に難しい。例えば、世の中の仕組みは男性主体で描かれている部分が多い。医者と女医という言葉が分かれているように、わざわざ女性にだけ特定の単語が使われているというケースは多く、このことからも男性中心の社会であることが分かる。歴史を見ても、学校の授業で習うような歴史では、顔写真が出てくる人物は殆どが男性であり、女性が例に挙がることは極めて少ない。だから、普通に歴史の教科書をたどっていくと、歴史は男性中心に紡がれたように受け取られてしまう。このような観点を指摘して、フェミニストの方々は反例となる事実を挙げて反論はするけれど、マイノリティの立場ではなかなか意見が通らない。そもそもフェミニストという言葉自体が区別やマイノリティの証左であり、このような言葉自体が多様性といいつつもそれを否定する社会を現わしているように思える。

上述したように、普通に生きていれば、男性であれば女性が被っている不利益をそもそも理解できない。なぜなら社会が男性を優遇するように出来上がってしまっていて、そこから抽出されるデータや情報も男性社会を前提とした統計だからであり、その統計を用いて社会がまた創られる訳だから、そこからはみ出る存在はそもそも認識されていないケースが多い。政治の世界などは極端に男性比率が高いし、そもそも意思決定者が偏っていることもそれに拍車をかける。統計的差別も生じやすく、構造的にも差別が生じやすい。このような中では、女性は不在となってしまい、また同性愛者などのマイノリティも不在となる。存在が認識されないままに社会が構築される。

ビジネスの世界では、不在の見える化にこそ価値があるということで、見えないニーズをウォンツと読ぶことで、そこに焦点を当てようという流れは生まれてきている。ただ、ビジネスでは基本的に資本主義下での競争とセットになってしまうため、不安をあおったりするケースも多く、自己啓発セミナーや新興宗教などはこの手のウォンツを自己肯定感などと結び付けて搾取するようなケースも出てきているように感じる。(もちろん、ウォンツを満たして社会貢献をしようという企業もあるけれど)

個人的には、幼少期に大病をして2週間ほどネタきりになったり、離婚の経験を通して、当たり前のものが無くなった時に、不在(≒当たり前に存在していたこと)が見える化されたように感じる。ただ、これは裏返すと、よほどのことが無い限り個人レベルでは気付けないということなのかもしれない。

最近では、社会課題に関する書籍も数多く読んでいるため、不在となっているカテゴリーについても理解は進んできた。ただ、そもそもこういった分野に興味関心をもつ層も少ない訳だから、不在に焦点を当てることは本当に難しいかもしれない。

コーチングは見失ったものを見つけることが目的だと言われることがある。確かに不在の存在(これは正しい日本語なのか?)を見つけるということも、ある意味コーチング的な要素を含んでいるかもしれない。そのためには、世界を知ることが重要であるし、その世界に対して問いを続けていくしかないと感じる。このようなことを考えながら、少し不在な毎日を、少し哀しくも楽しく生きていければと思う。

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