紛失
最近何をなくしましたか?
交通系カードを、いつもは財布のカード入れの部分に入れて使っているのだが、今日はちょっと出かけるだけだったので、財布も面倒だと思いカードをポケットに入れて出かけた。左右のポケットにはそれぞれマスクとハンカチが入っていて、カードはハンカチ側に入れていた。運動のため、ローカル線には乗らずに本線の駅まで歩いており、途中で汗が出てきたためハンカチを取り出して拭った。ハンカチを戻して、駅までさらに5分程度歩いて到着したところでカードを失くしたことに気が付いた。ハンカチを出した時に落としたのだろう。
ここで、瞬間的に焦りと苛立ちの感情が押し寄せてきた。昔だったらそのまま怒りの感情にとらわれてしまい、一日嫌な気分で過ごしていたと思うが、今日は少し成長を感じることができた。よくアンガーマネジメントでも言われている6秒数えるを実践した。それで少し気持ちを落ち着けることができた。そこから、カードを失くしたことによる問題点を冷静に考えたところ、大きく分けて三点の問題があることが整理できた。①新しいカードをどう入手したら良いのか分からないこと、②チャージしていた1万円程度を損失したこと、③今から駅でカードが使えないことであった。
①は駅が近いためスマホで調べるより駅員に尋ねた方が早いかと考え駅に向かうことにした。②と③は、所詮自分も人間だしミスしても仕方ないということで、金銭的損失と今日の予定(大したものでは無い)を一旦手放した。駅員に尋ねたところ、1000円程度で再発行が出来て、チャージも引き継げるということを丁寧に教えてくれた。所定のコールセンターにスマホで電話をかけて、翌日以降に駅で再発行できる手配をしてもらった。予定が狂ったのと、帰りも歩くことになったのは想定外だけど、新たに再発行手続きも実践できたし、感情制御もできたし、②は実は問題ではなかったことも分かり、安い授業料で良い体験ができたと感じるに至った。感情への対応次第で、失敗も良い学びに変えられることを改めて感じた出来事でもあった。
帰って風呂に入りながら考えていたのだが、自分はいったい何を失くしたのだろう。確かにカードという物体を物理的に失ったことは事実だけど、ポイントという形で引き継ぐことはできるようだ。そう考えると、自分が所有していたものは金銭的価値のあるポイントなのか、カードそのものなのかもよく分からない。カードであれば物理的に所持しているということは想像しやすいが、ポイントであればそもそも所有している感覚もあまり湧かない。所有するとは存外難しい概念である。
先日読んだエーリッヒフロムの『生きるということ』はto be(あること)とto have(持つこと)を対比した話だった。エッセンスとしては、持つことにこだわってしまうと、諸行無常の世の中で、失うことの恐怖を感じながら生きていくことになってしまう。だからあることにフォーカスした方が幸せに生きられるという話ではあった。ただ、そもそも持つという概念自体の定義も難しい。車などの物質の所有証明は、契約書などだろうか。家族を持つといった場合は、届け出がそれを証明するのだろうか。愛、勇気、情熱などは持つことをそもそも証明できるのだろうか。そんなことは証明できないから、主観的にあることを目指して生きていくことが大事なのだろうか。
一方で、人は社会的な生き物だし、心や感情を伴った有機的な繋がりは確かにあるように感じる。そんな中で、時間や気持ちを共有することはできるはずだし、実際にそのように感じている時間は幸せな時間でもある。この共有というものは、一緒にいる(ある)ことなのだろうか。それとも、一緒の気持ちを持つことなのだろうか。ひょっとしたら、誰かと一緒なら持つということが可能なのか。
所有の概念を言語化するには、自身はまだまだ未熟だ。ただ、世の中には言語化しなくてもよいものもあるのかもしれない。カード紛失から始まって、所有の概念について考えるとは、全くもって面倒な性格だけれども、ちょっとだけ自己満足出来た一日だったように思える。