ブルシットジョブ
あなたの仕事は社会に価値を提供していますか?
デイビッド・グレーバー氏の訳書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』を完読した。本著を知るキッカケになったのは、ブレイディみかこ氏の著書『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』で紹介されていたから。先週末に本屋に行ったら、ちょうど表紙が分かる形でおいてあったので、重厚感はあるものの、シルバーウィークもあるということで購入した。
本著は、本人でも意味がないことに薄々気付いている、社会に価値を提供しない仕事をブルシットジョブと定義している。そこから、ブルシットジョブに携わることによる害悪や、それが生み出されてしまう理由を経済的側面や社会的側面から論述している。一言で表すと、既得権益層が利益であったり自身の優越性を保つ上で作り出される仕事ではある。ただし、その歴史的背景に資本主義だけではなく、宗教観や中世の封建主義があることは意外でもあった。また、医療や保育などコロナで賞賛されたような、ケアワークを主とする無くてはならない仕事は、それ自体が利他の性質を持つためやりがいがあるということで、却って低賃金になっているという考察も、なるほどと思いつつ社会の闇の深さを改めて思う内容でもあった。本著は主目的が問題点の定義であり、解決策はおまけ程度に述べられているにすぎないが、最後の改善提案としてベーシックインカムの話が出ている。無価値な労働で生じる損失よりも、ベーシックインカムで補償された上で、チャレンジをしていく方が、生産的でもあり創造的でもあるという考えは同意できる。
ここからは個人的な要約だが、グローバル化や技術革新がとてつもない速さで進み、そのスピードに追い付くために分業化が進んだため、セグメントの中での業務以外見えにくい形になってしまった。顧客の実像も見えにくく、隣の部署の仕事も見えにくく、さらには同僚の仕事までもが見えにくい。こういった中で、自分の仕事が社会とどう繋がるのかも分からない。一方で、人口爆発を伴う資本主義経済の中では、お金を稼がないことには食料も入手できない。社会は失業率0を目指しているし、そのためには仕事を作らざるを得ない側面もある。パッチワークのように作られていく仕事の中には、全体最適ではなく、経営者や管理層の偏った視点による部分最適化があっても当然であり、それらがブルシットジョブになっていく。さらに技術革新により、AIによるオートメーションが発展し、既存業務までもがブルシット化していく。既にブルシットジョブについている人だけでなく、AIに仕事を奪われる人、働き方改革で改善が達成されることで不要になる人、定年が延長し役割が無くなる中で雇用だけが継続される人、そもそも機会を与えられない若年層、今後ブルシットジョブを担当する予備軍も恐ろしく増えているように感じる。
自身の仕事についても考えてみる。そもそも管理職の仕事は自身がいなくても権限移譲や自動化により生産性が向上するシステムや組織を作ることが大きなミッションの一つだ。目標達成に邁進していけば自身の仕事も最終的にはブルシット化する。新しいビジネス提案などの価値提供まで職務として盛り込む場合は、空いた時間で創造的業務を担うことが役割となる。だから、生産性向上とセットで、空いた時間で何をするのかの役割や職務を考えておかなければ、既得権益層は既存の業務を延長し続ける方向で抵抗したり、やった振りをするだろう。また、創造的業務は既存業務よりも難易度は高いだろうから、能力的にそれが実践できるかどうかの問題もある。既存業務で手一杯の振りをしてブルシットとして生きていくのか、やり方の分からない創造的業務で四苦八苦し、失敗も伴いながら新しい職務を全うするのか。個人的には後者にチャレンジしても良いと思っているが、歳を取るほどに新しい業務は難しくなるのだろうと周囲を見回して思うこともある。ただそれでも、企業の研究開発という職業柄、開発目標もあるし、顧客もいるので、まだブルシットと感じにくい職群ではあるように思う。そういう意味でも自分は恵まれていると改めて感じる。
ブルシットジョブをしている人たちにも、自身や家族のために生活費が必要などの理由があって働いている。だから直ぐに辞める訳にもいかない。せめて職場の人間関係が良好であれば、当面は心身に悪影響を及ぼさずに過ごせることもできるかもしれない。対症療法でしかないかもしれないけれど、最低限の人間関係の担保や、個々人の成長が少しでも感じられるような工夫を、職場の中でもしていくことが大事なのだろうなと改めて思う。ここらを切り口にして、もう少し具体的対策については考えていきたい。