【能登半島地震寄付用】自伝

今年で音楽活動と創作活動15周年を迎える。
音楽面では中学2年生の頃にイジメ被害を受けていて、毎日を生きる意味がわからなかった。
そんな時、ユニコーン(奥田民生)の音楽に触れ、こんな大人になりたいと思った。

母に白いエレキギターをねだり、貯金から買ってくれた。
母はヤクルトレディの仕事をしていた。
父はというと、アル中で仕事には行くもののパチンカスで全く貯金らしい貯金をしていなかった。
家庭環境は荒れていて、学校にも居場所がなかった。

だからこそ、音楽が心の支えだった。
他にその頃聴いていた音楽はスピッツとかミスチル辺りだった気がする。
掌のMVの不気味さがなんとなく好きだった。
桜井さんの手か目かどっかから黒い液体がこぼれるようなMVだった気がする。

ユニコーンの全アルバムをだいたい聞いた。
文化祭的な催しで地元の文化会館的なところで、
ユニコーンのカバーした東京ブギウギのカバーをするパフォーマンス(エレキギターでの弾き語り)をしたところ、1つ上の先輩からバレンタインチョコをもらえた思い出がある。

高校は地元から離れた場所で入試の実技試験で、ユニコーンの車も電話もないけれどを披露した。
だいぶ時間が経ってしまった今でも思い出せる。

高校は地元から1時間半は離れた横浜の田舎のほうの学校に通っていた。
共学で私服登校な学校で自由な雰囲気だった。
女子が多めで、仲良く話しかけてくれる男にもっとしっかり対応するべきだったのだろうけどイジメがトラウマで限られた人間にしか心を開けなかった。

FC東京とベガルタと銀杏BOYZが好きなK川くんという知人がいた。
そいつからフジファブリックを教えてもらい、また電気グルーヴも少し聴くようで自分も聞くようになったら両方にどハマリしていた。

バンド活動は軽音でチャットモンチーのコピーバンドを組んだが、オリジナル曲志向な自分はあまりやる気が出ずそのバンドのギターを辞めた。

そしてミスドで働いて貯めたお金でパソコンとMIDIキーボードを買い、ひたすらインスト曲を作り始めた。
作風的にはテクノ、実験音楽が多かった。
どうやって録音してたか忘れたが、一応ボーカルものも作っていた。

高校時代は超飛行少年、シュノーケル、音速ライン、神聖かまってちゃん、スネオヘアー、クノシンジ、メレンゲ、Czecho no Republic辺りを聞いていた。

高校時代はカノジョができなかった。
とにかく色んな女の子と仲良くなろうとしたが、今と違って情報を安く手に入れられないからなかなかアニメにしても他にしても話題を作るのが難しかった。

社会人になりたての頃にフジファブリックの志村さんの訃報が届いた。
頭が真っ白になった。
同時に彼の分も音楽を作りたいと思った。

社会人初期〜中期(20代初期)はアート・オブ・ノイズ、クラフトワーク、パレシャンブルグ、ブライアン・イーノ、ヒカシュー、あぶらだこ、エレポップ、エレクトロニカ系、overrocket、DJ TASAKA、アルファ、TOKYO NO.1 SOUL SET、LAMA、エレンアレン(彼女の他にも石野卓球のWIRE系のアーティストはだいたい聴いた)を聴いていた。

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