ホットコーヒー(掌編小説)
喫茶店に呼び出されたとき、嫌な予感はあった。だから店内に入って彼の姿を見たら、ああ終わりなんだなって悟った。
「ホットコーヒーひとつ」
「俺はいいや」
「……そう」
頼んだコーヒーが届いてすぐ、彼は口を開いた。
「結婚するんだ。だから今日で終わり」
彼はそう言いながら、面倒くさそうに自分の首にかかったネックレスを手でもてあそんでいた。シルバーのチェーンの先に小さなダイヤモンドがつけられた、彼には少し似合わない洒落たもの。
「それをくれた人?」
「そう」
「そっか」
はじめて出会ったときから会うときはいつもつけていた。デートのときも。大事なものなんだろう。誕生日に一度、私も彼にバングルを贈ったけど、直後のデート以外ではつけてこなかった。アクセサリーは性に合わないんだって言って。それからのプレゼントはタオルとかスイーツにした。
だからこれがほんとうに最後。
「もうすぐ誕生日だったよね」
小箱をテーブルの上に置く。彼の好きな赤い色の包装紙でつつんでもらった。
「もらってよ」
「別れんのに?」
「あなたのために選んだものだから」
しばし沈黙がおりた。彼の手が箱に伸びる。
「ありがとう」
「うん」
中身はネックレスだ。ダイヤモンドなんて手が出せなかったけど、私にとってはそれなりに背伸びをしたもの。
もう会わないから、選ばれなかったかどうか知る日は来ない。最後にならないとこんな賭けに出られなかった。
彼は箱を鞄にしまって、もう用は済んだとばかりに立ち上がった。
「じゃあ」
彼の手が机から離れる前に自分の手を重ねる。彼がこちらを見た。
「捨ててね。これまでのも全部」
贈り物を渡してから言うことではないけれど、これが精いっぱいの強がりだ。
その言葉に彼は何も返さず、店を出て行く瞬間、片手を上げて去って行った。それだけ。それで終わってしまった。
「あっさりしすぎ……」
これまでの日々を想って、机を濡らす。短くない日々を過ごして、こんなに簡単な終わり方なんて。
ホットだったコーヒーが冷えきったころ、ようやく落ち着いて息をすることができた。半分ほど残っていたコーヒーを飲み切る。冷たい。
喫茶店の店員さんがおかわりを聞きに来てくれて、やっぱり温かいものが欲しくてもう一杯いただくことにした。私が泣いていたことには触れないでいてくれる気遣いが嬉しかった。
届いた一杯を口にしていると、からだがだんだんあったまってくる。それにほっとしながら、最後に見た彼の後ろ姿を思い返していると気がついた。本当にささいな、気がつかなくてもよかったことに。
彼が手を上げたとき、服の袖がわずかに肘に落ちて見えてしまった。その手首に、私がかつて贈った一度だけだったはずのバングルを身につけていたこと。
その意味を考えてもどうしてかはわからなくて、それなのに私は、涙が止まらなくなった。でも、コーヒーのカップから手を離さなかった。今度は冷めてしまうまでに飲み干したかったから。
カクヨムにて連載していた掌編集「お似合いだね」より。
マガジンにもまとめています。