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『萬屋夢幻堂・零~ファイナル~』全掲載作品・品評会レポート(試し読み)

はじめに


本稿は、2024年12月1日開催の文学フリマ東京39〈て15~16 萬屋夢幻堂・零 with ますく堂〉ブースにて初頒布する成城大学文芸部25周年記念アンソロジー『萬屋夢幻堂・零~ファイナル~』巻末企画の試し読みです。

https://x.com/ayumu_KM/status/1852665699526660315

成城大学文芸部の機関誌である《萬屋夢幻堂》は、年に四回、季節ごとに発行されており、創立25周年の今年、100号を迎えます。
一方、《萬屋夢幻堂・零》は二十数年前に創刊された、成城大学文芸部の節目ごとにOB・OGが秘密裏に刊行してきた書下ろしアンソロジーです。参加者と一部関係者のみに頒布されてきましたが、25周年記念号にして最終号である本誌を刊行するにあたり、史上初めて、有償頒布することとなりました。
今回、試し読みとしてご用意したのは、掲載作を課題作として実施した二泊三日に及ぶ品評会合宿の記録の中から、品評会最初の一編、赤狐さんの「コロナ以上友達未満」の頁を全転載するものです。
当該作「コロナ以上友達未満」は、そのプロトタイプがネットにて全文公開されており、本稿をお読みいただく皆様に「実際の作品を読みつつ品評会での議論を楽しんでもらう」という体験をまさに「お試し」いただけるものと考えております。


https://x.com/Jun_Lambert2012/status/1505773167553363971


なお、品評会時点での作品も、今回の掲載作も、ネット公開作品から改稿を重ねた別バージョンとなっておりますので、そうした変遷もお試しいただけるものと思います。
さらに最初期のバージョンが掲載された「コロナ禍に書く」をコンセプトとした文芸誌『渦』も当ブースにて頒布致します。

創作者の皆様には、特に、お愉しみいただける趣向なのではないかと自負しておりますので、ご一読いただければ幸いです。

二十五周年記念の、そして、最後の《萬屋夢幻堂・零》


益岡和朗(以下、益岡) 
最初に《萬屋夢幻堂・零》について簡単に紹介したいと思います。《萬屋夢幻堂》は、成城大学文芸部が年に四回、発行している文芸同人誌です。同団体は、今年、創設二十五周年。機関誌も同様で、順調にいけば今年で百冊を数えることとなります。
それを記念してOBOGで本を出そうというのが、今回の《零》のコンセプトです。
ちなみに、この《零》は、元々、節目にあたる年にOBOGによって刊行されてきた文芸誌でした。
一冊目は五周年に出したかったのですが、遅れてしまって創部七年目にして刊行。その後、十周年、十五周年と刊行を重ねておりましたが、その間、OBOG誌として《回青橙》という媒体が生まれ、それなら《零》はもう、役目を終えただろうということで休刊にしておりました。
その後、新型コロナウィルスによるパンデミックが起こり、《回青橙》が休眠状態に。個人的には、まあ、このあたりが潮時か、とも思っていたのですが、なんといっても二十五周年、四半世紀ですから……我々創刊メンバーなどは、五十周年のときには生きていられないかもしれないと思うと、まあ、これを最後の営みとして、本を出すのもよかろうということになりました(笑)
萬澄十三(以下、萬澄) 
そんなことは決まっていませんよ。次は三十周年で出します。
益岡 
(無視)成城大学文芸部では、新刊を出すたびに「品評会」を開催してきました。これは、出席者全員が掲載作を読み、感想を述べる─作品の問題点を指摘し、改善点を見出していくための議論を行うイベントです。創設者としては、作品を書き、本を出すのと同じくらい、あるいは、それ以上に重要な活動はこの「品評会」であると考えてきましたので、今回、最後の記念号を出すにあたって、この品評会の模様も作品とともに掲載することにしました。この一冊で、成城大学文芸部が重要視してきたもの、大事に育んできたものを少しでもお伝えできれば幸いです。
なお、参加者には、この品評会開催後、作品をブラッシュアップする期間を用意しています。そのため、品評会で語られた作品とは趣が異なる「完全版」が掲載されることもあろうかと思います。読者の皆様にもそのあたりをご勘案いただいたうえで、お楽しみいただければ幸いです。

〈コロナ時代劇〉としての青春小説
赤狐「コロナ以上友達未満」


益岡 
それでは早速、品評会を始めていきたいと思います。まずは作者自身が自作について軽くコメントをし、その後、出席者それぞれの感想を聴きつつ、適宜、議論を広げていくという形で進めて参ります。一作目は、赤狐さんの「コロナ以上友達未満」です。
赤狐 
よろしくお願いします。この作品を最初に書いたのは二〇二〇年の八月。まだ、コロナの影響がどこまで広がっていくのかがわからない状況でした。今回の《零》にも参加されている斉藤五月さんが刊行した文芸同人誌『渦』に寄稿するために書いたものでしたが、実は二〇二一年にはネットでの公開も行っており、今回掲載したものは、その反響も取り入れながら、コロナ禍が落ち着いた現時点で当時を俯瞰しつつ改稿したもの、ということになります。
コロナを扱った作品ではあるけれども、暗くなりすぎないようにしようというコンセプトは最初からありました。『渦』には「コロナ禍のさなかに書く」というコンセプトがあったと思うのですが、その中で、コロナ禍に「明暗」があるとしたら、やはり「暗」を描いた作品が多いのではないか。でも、実際には、「暗」ばかりではない。あの数年間でかなり儲かった、得をした業界があったことも事実なんですよね。そうした側面、明るさのようなものも含めて、すべてが「コロナだった」ということを、この作品で描けたらと思い、暗い話になりすぎないように、特に終わり方は前向きになるようにしようと決めていました。最初に発表したときは、コロナ禍真っ最中ですから、あまり暗い気持ちで、ただそれだけで終わる作品にしてしまうと読んでくださる方に申し訳ないので、少しでも明るい、希望が見いだせるようなラストを書きたいと思って、苦労しました。モチーフとして意識したのは、「コロナ」「モラトリアム」「二〇二〇年」です。特に、二〇二〇年当時のサブカルチャーはあえて盛り込むようにしてみたので、響くひとがいたらいいな、と思っています。
ご意見ご感想、また、二〇二〇年当時の皆さんの状況と照らしてどう感じたか等、お伺いできればと思います。
はるかなつき(以下、はるか) 
読ませていただきました。とりあえず、面白かったです。コロナをテーマにしたうえで暗くなりすぎない物語を、という狙いについてはよく伝わりました。ドライブのシーンなんかもあって、とてもさわやかな作品だと感じました。
サブカルネタでいうと、主人公がゲームをしているときのプレイヤーの名前は「疾風迅雷のナイトハルト」からだと思うんですが、とても懐かしいな、と思いました。
気になったところは、大きく二つ。
ひとつは、「説明のための会話」が目立つな、ということ。ドライブ中の会話は特に主人公の境遇というか、小説の設定を説明しているという印象が強かったです。
二つ目は、登場人物のセリフの言葉遣いにところどころ引っ掛かりました。たとえば中嶋というキャラクターが、自分の行動を「試し行動」と口にする場面があって、それはその通りなのかもしれないけれど、本人のセリフとしてはちょっと客観的すぎるよう気がして違和感を覚えました。
赤狐 
この部分は、最初はこういう表現ではなかったんですけど、この作品をネットで公開した際に中嶋の行動の意図がうまく伝わっていないなと感じたことがあって、あえて直接的な表現を使ってしまった部分です。セリフじゃないかたちで伝えられたらよかったかな、とは思っています。別の言い方をするとか……
はるか 
あとは、主人公が「死にたい」と口にした中嶋を残してあっさり立ち去ろうとする場面があって……話の流れを思うと、ここであまりにもあっさり中嶋をひとりにしてしまうのは危険なんじゃないか、と。こんなシチュエーションでも踏み込めないのがこの主人公なのかもしれないですが、それならその葛藤が書き込まれていたほうが、リアリティをかんじられたように思います。
でも、最後の「前向きさ」を表現するのが「お風呂に入る」という行動に集約されるところは、納得感もあり、とても良い展開だと思いました。
遠藤鳩二(以下、遠藤) 
いやあ、たいへん楽しませてもらいました。心技体のうち、心技は、成人してからも成長するものなのだな、ということを実感いたしました。最後に赤狐さんの作品を読んだのは十五年前くらいなので、そのときに比べると大変読みやすくなっているという印象を受けました。
説明がちなところは確かにあるものの、映像としてイメージしやすい流れになっているのでそこがすごくいいな、と思いました。作中でも明暗がうまく表現されていて、明るいところは明るく、ほの暗いところはほの暗く描けているところに好感を持ちました。
この作品を読んで思い浮かべたのが、志賀直哉の「流行感冒」。スペイン風邪の流行を題材に描かれた作品ですが、感染拡大まっただなかで、その時点での風俗を描いた作品というのはなかなかに珍しいものだと思う。何十年後かにこの作品が読まれたとき、その頃のことを知らない若い人が読んで実感できるものがあると思うし、同時代に生きた人たちの中の風化した記憶をよみがえらせるような、そんな要素を持った作品でもあると思います。
「流行感冒」の中では女中のイシという人物が芝居を観に行ってスペイン風邪にかかってしまう。それを秘密にする対象は、自分の主人なわけです。対して、本作の中嶋はホストクラブへ行ってコロナウィルスに感染する。秘密にする対象は周囲の不特定多数の人々。それを打ち明ける相手としての主人公がいる。
二作を並べてみると、たいへん似通った構図で過去と現在のパンデミックが対になるようにも思え、興趣を覚えました。
もうひとつ、申しあげておきたいのがタイトルについてです。このタイトルはいささか直接的すぎるような印象を受けるので、もう少しポエジーなものを探してもいいのではないか。たとえば、この小説は冒頭のゲームシーンをラストで回収するような趣向があると思うのですが、このゲームに関する用語をタイトルとして採用して─たとえば、「フレンド申請」とか、「フレンド・コード」というような、ちょっと抽象的なタイトルを持ってきて、読者に解釈の余地を与えてもいいのではないかとも感じました。
天津童化(以下、天津) 
とても読みやすい小説だと思いました。冒頭、楽しくゲームに興じていた主人公が、どん底の気分に落とされるわけですが、そのときの主人公はすべてのことがらに受身でいる。それがラストでは、能動的に行動し、ハッピーエンドを迎えるというか、引き寄せることになる。そのコントラストを非常に気持ちよく読みました。
中嶋は、海に沈むつもりはなかった、死ぬつもりは最初からなかったと告げますが、もちろんそれは嘘ではないものの、完全にほんとうでもないのだろう、と。このアンビバレンツな心情がそこはかとなく伝わってくる感じも大変よかったと思います。
遠藤さんが指摘したタイトルの問題─改題案の「フレンド申請」は、原題の「友達」の部分は担えると思うのですが、「コロナ以上」という部分に込められた「コロナを超えてきた」というニュアンスを失ってしまうので、僕はタイトルを変えるにしても、このニュアンスを残したいな、と感じました。
萬澄 
この作品が赤狐さんのこれまで書いてきた作品の中でベストだという意見には私はもちろん賛成なのですが……私は今回、この作品の初出誌である『渦』に載ったバージョンと、今回の掲載作を並べて読むという試みをしてみたのですが……正直、ちょっとブラッシュアップしすぎたというか、直しすぎちゃったかな、という印象を持ちました。
全体的に長くなっていると思うのですが、特に後半部分が盛り込まれたのかな、と……ミステリ要素もある作品かと思いますが、そういう意味では、ミステリ的回収作業を丁寧に施してあるわけです。私はミステリ畑の人間ですので、本来は、その改変を歓迎しなければならないんですが、正直、ちょっと、前の方がよかったかな、と(笑)。
『渦』でのバージョンを読んだとき、私は、大岡昇平の「武蔵野夫人」をイメージしていたんです。ところが、今回、このバージョンで読み返してみたら、片岡義男の「メインテーマ」みたい、と……印象が全然変わってしまった。大岡昇平を感じなくなってしまったんです。
それは、後半に、心理描写というか、登場人物の心理説明が多くなっていることが影響しているのかな、と。ふたりの会話によって、行動の理由が説明されてしまう。それが「描写」によって伝えられる情報を上回ってしまっている。
『渦』のときは、もっとざっくりとした割り切れない感じが作品全体に漂っていたように思います。それが魅力になっていた。たとえば、江の島にたどり着いて二人で海に入るまで、今回のバージョンはかなり段階を踏んでいる。『渦』のときは確か、突然、中嶋がキレだして、その流れで二人は海に入って水を掛け合う……
赤狐 
そうです。そこがいちばん変わったところですね。
萬澄 
江の島の海の地層の話が、前のバージョンだと数行出てきていた。「武蔵野夫人」は武蔵野台地の地層の不毛さと主人公たちの感情を重ね合わせるという構図を持った作品なのですが、私は、この江の島の地層の話が、中嶋の激しい感情の発露を導いているんだという風に読んでいて、そこには「武蔵野夫人」的作劇があるものと感じて仰天したんですね。今回のバージョンは、ある意味ではわかりやすくなっているんだけれど、前のバージョンにあった文学的必然性が失われてしまったように思う。ここには、丁寧に書こう、丁寧に直そうという作者のポジティブな思いが見て取れるわけですけれど、ただ、私はその結果としていささか平坦な、メリハリのない展開が出来上がってしまったように思う。
赤狐 
どうしても、雑に見えてしまうんじゃないかという思いがあって……
萬澄 
その気持ちは大変よくわかるんですよ。でも、赤狐さんは、もう純文学ではなく、エンタメで行くと決めたわけですよね? 私や、新宮さんや天津くんと同じエンタメ路線でいくと決めたわけですから……
益岡 
党派意識丸出し(笑)
萬澄 
エンタメならば、丁寧さよりも、やっぱり「あざとさ」が欲しい。
益岡 
でも、そういう意味では、新バージョンのほうがあざといんじゃない? 私は、エンタメ感強い気がする。説明をして親切設計にすることが「エンタメ」だと言っているような……
萬澄 
そう? 新バージョンのほうが、あざとさをなんとかなくそうなくそうと努力している感じがする。
赤狐 
そうです、そうです。
益岡 
あざといというか、作為が強いという感じかな。現在のバージョンは。僕はなんとなく、「時が経ってから書いたんだな」という感じがする。「その場で書いた」という切迫感というか、ある種の迫力が前のバージョンにはあった。文学的な力は正直、前のバージョンのほうがあったと思う。ただ、遠藤くんからの指摘もあったけれど、将来的に、このパンデミックを経験していないひとたちが読んだ時には、前のバージョンにはなんらかの「解説」が必要になるだろう、と。そういう意味では現バージョンの方が親切設計で、「解説」が内蔵されているつくりなのだろうとは感じられる。
それは、どうしても、今、コロナが終息したとされている地点の作者から「振り返る」という視点・視野で書かれてしまっているからで、それを「そういう視点が出ていていい」と捉えるか、「出ちゃった」と否定的に捉えるかは意見が分かれるところなのだろうな、と。
個人的には、生の声として小説に刻むというか、証言的文章として残したいと思えば、前のバージョンがいいのかなとは思うけど、それはまだ、私たち自身も記憶が鮮明な中で読むことができているからであって、二十年後にもう一度、この作品を読んだ時には、現バージョンの方が違和感なく入ってくるのかもしれないとも思う。
萬澄 
私は、この小説には「コロナ小説」という枠組みを超えた普遍的なものを感じたんですよ。コロナ時代を描いた風俗小説というよりは、どの時代にも通じる男女の愛の不思議さを純粋に描いた、あるいは、ふたりの感情の割り切れなさを描いた作品という風に、『渦』バージョンは読んだんですよね。だから、先ほどのタイトルの論議の時に、普遍的なものを求めるなら「コロナ」は出てこないほうがいいのかな、と。しかも「コロナ以上友達未満」というフレーズは作中に登場するわけです。ひとつの様式美だとは理解しつつも、ちょっとやりすぎなような……
益岡 
じゃあ、どんなタイトルがいいんですか?「センチメンタルジャーニー」みたいな感じですか?
萬澄 
「号泣する準備はできていた」みたいな感じかしら……
益岡 
ああ、そういう感じ……すごいね……あらためて、すごいタイトルなんだね、「号泣する準備ができていた」って……
萬澄 
私からは以上です。
新宮義騎(以下、新宮) 
作者がこの作品に込めた思いと読後感とのあいだにギャップがあるように感じました。作者としては「コロナ後を前向きに生きていこう」というような思いがあったということだよね?
赤狐 
前向きに生きていこうというよりは、終わり方をポジティブにしよう、くらいのイメージですかね。
新宮 
読者に「前向きさ」を与えるためには一定の共感が必要だと思うんだけど、この「主人公に都合がよすぎる展開」にちょっと冷めてしまったところがあって……ここまで恋愛色を出さなくてもよかったような気がする。
萬澄 
私は逆ですね。海の中での濃厚なラブシーンが見たかった。
益岡 
むしろ恋愛要素が弱すぎた、と(笑)
赤狐 
恋愛要素は前のバージョンよりは強く出ていると思います(笑)
新宮 
僕は旧バージョンくらいのあっさりさで主人公の「救い」が恋愛要素を含まずに表現されるほうが好みだし、創作としての難易度も高いと思う。前半の主人公の境遇がもっと過酷であるほうがそのギャップで「救い」が表現されるのかな、と。ドラマの作り方が弱いかな……ありきたりな恋愛ドラマを使わなくても「救い」は表現できたように思う。
遠藤 
でもそれは全体の筋を変えてしまうことになりますよ。
新宮 
うん。だからあまりここを強調してしまうと「この小説として成り立たなくなる」というのはその通りなんだけど……個人的には、ここまでの恋愛要素は必要ないように思う。
鄭しゅう(以下、鄭) 
出したほうがいいですよ、恋愛!
益岡 
(笑)……じゃあ、次、鄭さん、話しなさいよ(笑)
 
今回の作品、楽しかったですよ。今まで読んだ赤狐さんの作品の中で一番良かった。恋愛要素がなかったら、むしろむかつくと思いますね。こんなにかわいい感じの女の子が出てきて恋愛しない男の子なんていないじゃないですか。
益岡 
クラシカルなご意見!
 
クラシカルであることが悪いとは私は思わない。「ダメ、うつしちゃう」っていう、あのセリフが出てくる恋愛小説であるということが「コロナ禍エンタメ」の肝だと思うんです。「感染させちゃうからダメ。でも……」という、そこに感情の高ぶりがある。ここに恋愛がなくちゃ、つまらないですよ。
益岡 
コロナ禍の異常事態下を舞台にクラシカルなボーイ・ミーツ・ガールを描くことによって伝えられる「その時代の空気感」というものは確かにあるような気はするね。
 
リモート参加なので現場の議論の流れがよくわからないんですが、「こんなに男の子に都合のいい女の子が出てくるのが不自然」というような意見がもし出ているとしたら、それは気にしなくていいと思いますね。「憧れ」でいいと思うんですよ。主人公は等身大に「ダメなやつ」で、読者の共感を得るような設定になっていると思う。そういう人物が「憧れ」に出会う。憧れになりうる女の子と憧れたくなるシチュエーションで触れ合う……そこが、こういう小説の楽しさなんじゃないの、と思いながら読みました。
赤狐 
あざとくなかったですか?
 
あざとくていいんじゃないですか。自然を目指したって無理ですよ。あざといを覚悟してやったらいいと思うし、その覚悟がこの作品にはあるものとして読みました。今の時代、恋愛ものや青春ものにも「あざとさ」を避けるような風潮があると思うんですが、そこに寄せようとしていないところに、私は好感を持ちました。以上です。
斉藤五月(以下、斉藤) 
先ほどご紹介いただいたこの作品の初出誌である『渦』を刊行させていただきました、斉藤五月と申します。よろしくお願いします。
まず、初出時よりもバランスのとれた仕上がりになっていると思います。気になったのはやはりタイトル。「コロナ」という言葉が入ってくることで、読者に一種の先入観を与えてしまうのではないかと感じました。小説自体には「コロナ」抜きに書かれたとしても読者の共感を生む要素が含まれていると思うんです。自分の置かれた状況から目を背けてゲームに没頭する主人公の甘えであるとか、どこか共依存的に恋愛劇に発展していく男女の姿は、ある種の弱さの表出として共感を持って受け入れられると思う。この小説はそうした点が丁寧に描かれていて、そこが現状のタイトルとも響きあっている。そこが美点だと感じる一方で「コロナ」という言葉の持つイメージの強さが遠ざけてしまう読者層もあるのではないかとの懸念も感じました。
私だったらどうするかということを考えたときに─「コロナ以上友達未満」という文言が作中に一度出てくるわけですが、その言い換えになるような言葉や概念まで、主人公たち自身の会話でたどり着かせて、それをタイトルに据えるという展開はどうかな、と。コロナ時代を意識しなくても、過去でも未来でも通じるような「関係性」にたどり着かせることができれば、この小説はさらに良いものになるように感じました。
説明的なセリフが散見されるという指摘については、もう少し登場人物の特徴に寄り添った口調に変えていくことで緩和できるのではないかと思いました。たとえば中嶋は破天荒なところがある人物だと思うので、より砕けた口調で話させてもいいと思うんです。説明的に感じられる部分というのは口調の硬さも影響していると思うので、ある程度は改善されるように思います。説明しなければいけない部分は極力、地の文で、ということももう少し徹底してもよいのかもしれないと思いました。
セリフの不自然さが気になる一方で、中嶋のLINEの文言など、非常にリアルに仕上がっているのに驚きました。私の身近な三十代女性が「ダルがらみしてくるときの文章」にたいへんよく似ている(笑)。この辺りには、作者の研究があるように感じました。中嶋はめんどくさいけどかわいい、ふりまわされるのも楽しい居心地のいいキャラクターになっていて、すごくいいな、と思いました。
赤狐 
ありがとうございます。一応モデルはいて、LINEの文面もそのまま使っていたりするので、そこにリアリティを感じてもらえたのはうれしいです。
斉藤 
お互いを利用しあっている感じ、恋愛とも言い切れない、あいまいな部分を残した関係性がいいな、と感じました。中嶋が主人公におくる「やさしいね」という言葉は呪いだと思う(笑)。中嶋ははっちゃけているようで繊細で、自分の弱さをフォローしてくれる存在を求めている。「あなたはやさしい」と伝えることは、その関係性を強化するためのずるさだと思うんです。そういう意味で、このセリフは「中嶋」というキャラクターを象徴するものであると感じました。
アフターコロナと呼ばれる現在からみると、中嶋のふるまいは大げさに映るかもしれないけれども、この切迫感が当時のリアルだったんだということは強調しておきたいですね。なにがいいことでなにがわるいことなのか明確にはわからない中で、なんとなく「厳しいルール」が定められていく。社会全体がその規制の中で動いていて、あらゆる行動が縛られていたという当時の空気感を、この小説の中嶋は確かに伝えている。『渦』という文芸誌にこの作品を寄稿してくださったことを、あらためて感謝したいと思います。
赤狐 
こちらこそ、こういう作品を発表する場をつくってくださったことに感謝しています。ありがとうございました。
吉川うを(以下、吉川) 
お疲れ様です。吉川です。実は子供が手足口病になりまして、リモートでの参加も難しい状態になる可能性があったので、事前に感想を書いて送らせていただきました。
益岡 
代わりに読み上げますね。
・全体的に読みやすく、わかりやすく、この物語世界に無理なく没入して最後まで読み通すことができました。
・登場人物達の心情、心の機微がきちんと矛盾なく説明されていて、どうしてこの人物がこうした行動をとったのか、読み手が納得できるよう、破綻なく描かれていたと思います。読み手を常に意識して、丁寧に書かれた小説だなと感じました。
・中嶋の告白や行動には度肝を抜かれ、はじめ「うわっ、最低」と思ったのですが、前述したように丁寧な説明によって、彼女の最低な行動の裏にある不安や心の揺れが理解でき、逆にいいキャラクターだなと思いました。ある種の強烈なインパクトや毒をもった登場人物こそ、いいキャラクターになりうるのかなと思います。
・私は「私は頭がおかしい」を書きましたが、同じコロナをネタにしていて、こんなハッピーエンドな青春物が書けるのかと思いました。コロナのネタを上手く盛り込んでいらっしゃると思います。あんな暗くて嫌な小説を書いた自分が恥ずかしいです。しかも後に並べられて、私の暗さ駄目さが三割増しじゃないですか……。こんな並びにした益岡さん、ひどい(笑)
吉川 
そう、ひどいですよ! 益岡さん!
赤狐 
この並びには作為を感じますね(笑)
益岡 
何がひどいのか、まったくわからない(笑)。この二つと、そのあとの斉藤五月さんの作品もあわせて、「コロナ時代」を描いた作品として続けて読むことによる相乗効果があると思ってこの並びにしてみました。まあ、その辺は、この後、吉川作品の品評会もありますから(笑)
吉川 
追加で伝えたい感想としては……この作品は、私はエンターテインメントとして読んだんですけど、先ほどの議論を聴いていて、私は、もっと恋愛入ってもよかったかな、あざとくてもよかったかな、と思う派でしたね。
縄目 
言葉が適切かどうかわからないけれど、コロナの流行が始まった当初の描写としての「瑞々しさ」が感じられました。二〇二〇年の八月という、まさに渦中で書かれた小説として、歴史的証言という価値がこの小説にはあると思います。この小説を読んだときに感じる生々しさは、たとえその時代を経験した人であっても、あとから振り返るという形では出せない色彩だと思う。当時のSNSなどを調べて書いても多分こうはならない。ソースはふんだんにあっても、結局、アフターコロナのことも知ってしまっているから、そこから取捨選択をすることになる。そうすると、当時の空気感を再現することは難しい。情報が制限されていたが故に書かれうる小説があるな、ということを強く感じました。
遠藤 
本当にその通りですね。
縄目 
タイトルについては、最初はいいタイトルかもしれないと思ったんだけど、皆さんの議論を聴いて、書かれている「時代性」に比して、むしろ僕は普遍的すぎるように思えた。
益岡 
今までのタイトルの議論としては、遠藤さんなんかは、現状のタイトルよりも、もっと普遍的なものを探すべきじゃないかという主張だったと思うんだよね。でも、縄目さんは現状が「普遍的すぎる」と思っているということ?
縄目 
むしろ「一般的」かな。コロナの話だから「コロナ」という語が入ってくるというセンスは古いというか、ありきたりすぎる印象を受ける。だからといって「フレンド申請」がいいのかどうかはわからないけど……何年かすればぴんと来ないタイトルになるような気もするし、なにかもう少し当時の生々しさを伝える、印象的なタイトルが探せればいいのにと思っている。
遠藤 
この「フレンド」という関係性は、作品全体に響いている概念だと思うので、そのイメージは残ったらいいと思うんですよね。
益岡 
ただ、その関係性は、「コロナ以上友達未満」という現状のタイトルにも意識されてはいるわけだよね。個人的には「普遍」らしさをめぐって対極……とまではいかないものの、対照的な意見が出るなら、このままのタイトルでも別にいいのかもしれないな、とは感じたかな(笑)。
縄目 
正直、「フレンド申請」がぴんとこないのは僕がオンラインゲームをやらないからかな、とも思うんだよね。後、数十年後にこの小説がそのタイトルで読まれたときには注釈が必要になるだろうとも思う。現状の題には、その心配は多分ないんじゃないかな、と……いずれにしてもコロナ禍という時代に確かにあった「うわついた感じ」が作品全体で示されていることには大変好感を持ちました。
益岡 
僕も、総じて良い小説だとは感じました。気になったのは章分けというか、セクション分けですかね……大変短いエピソードが前編・後編というタイトルをつけて分けられている箇所がある。
萬澄 
そもそも、初出時は章分けなんてなかったよね?
赤狐 
はい。この小説はネットで公開しながらブラッシュアップをしていったんですけど、章題はネットで公開するにあたってつけました。ネットで公開する小説は短いセクションで投稿したほうが読まれやすいので、その部分部分でキャッチーに見えるように工夫しました。
益岡 
ああ、そういう観点は僕には全くない。
萬澄 
メディアの違いといったらそれまでだけど、中編小説に章題を採用するということには、私は違和感がありますね。
益岡 
ただ、今、小説をネットで読む層にとってのスタンダードは、この単位なんじゃないの? このコンパクトさが、彼らにとって違和感のないかたちなんだよ。
萬澄 
いやな時代になったもんだね~。
益岡 
僕は別にこれはこれでいいんだろうと思うけど。読者としての境遇というか、スタイルが違いすぎるから、あえて何かを申し上げる必要もないんだけどね……なにか、こういう風になっていった背景があるんでしょ?
はるか 
スマホゲームのストーリーシーンの区切り方に近いものを感じますかね。ストーリー部分とゲーム部分があって、またストーリー部分が来て……そのコンパクトさに似ているかもしれないですね。
益岡 
最近、会話劇というか、チャット劇のようなものだけ投稿するサイトがあるということを知ったんですよ。とあるイベントで知り合った小学生で、そのチャット劇のサイトでずっとBLを書いているという子がいて……その子は学校に行っていなくて、毎日、ほとんどの時間をそのサイトで過ごしているという話だったんだけど……その子に響いている「活字エンタメ」は、私の感覚からしたらもはやネット小説ですらない。でも、その文芸に切実に取り組んでいる若い子がいるというのは事実で……そんな層からすれば、赤狐さんの小説は十分に長い作品なので、これからの時代を思うと、この章分けは適切なのかもしれない。
先ほど、エンタメかどうかという議論もあったわけだけれど、従来の「エンタメ・純文学論争」の枠組みがまったく意味を持たない新しい文芸シーンが訪れているということは事実だと思うから、そうした「文学の情況」に一定数の配慮を示しているという点においても、意義深い作品であるように感じました。
それでは、最後に作者から一言。
赤狐 
この小説を書くにあたって参考にした作品として冬目景さんの「イエスタディをうたって」というコミックがあります。主人公リクオの境遇や恋愛の挫折と、そこから再び動き出すきっかけになる少女ハルとの出会いといった筋立てには大きな影響を受けているんですが、この作品がアニメ化したのが二〇二〇年で、それを視聴しながら本作の構想を膨らませていったので、当時の空気を表現するうえでも重要な作品になったのかな、と思っています。
萬澄 
赤狐さんには今回、個人的には完全新作を期待していたんです。彼には素晴らしい恋愛ものを書ける素養があると思うんですよね。男性目線の恋愛小説の凄いものが、プロフェッショナルの世界でも失われつつあると私は感じていて、それが赤狐さんには書けると思う。渡辺淳一的ではない方向で、男性目線のすごい恋愛ものが書けると思うので、ぜひ、新作も頑張ってください。
赤狐 
ありがとうございます(笑)

※続きが気になった方、他の掲載作等が気になった方は、文学フリマ東京39はもちろん、イベント後は、大阪阿倍野の「古書ますく堂」店頭や、神保町の共同書店PASSAGEにてお買い上げいただけますので是非手に取ってみて下さい。
通販はこちら⇒https://ichizan1.booth.pm/items/6273684


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