
ジャニーズがいなくなった世界で藤島泰輔『孤獨の人』を読む
二〇二三年十月十七日、この地上からジャニーズ事務所が消滅した。
創業者・ジャニー喜多川氏の性加害に関する再発防止特別チームの調査結果を受け、ジャニーズ事務所は性加害の事実を全面的に認め、被害者に対し法を超えた補償を行う旨、明言。ジャニー氏の姪であるジュリー藤島氏に代わる新社長に〈所属タレントの長男〉たる少年隊の東山紀之氏を充てる人事を発表した。ジュリー氏は被害補償担当の代表取締役として残り、全株式を保有する株主としても、被害者の救済に努めると語った。
これが九月七日に行われた一度目の会見の要諦である。重要なのは、この際、「ジャニーズ事務所」の名前は残すとの意向を東山新社長が示していたことだ。
本誌の座談会を先に読まれた方ならば「結局は、ジャニーズはジャニーズのまま継続していくだろう」と出席者の多くが考えていたことがおわかりになるだろう。問題の重さを鑑みてジャニーズは廃業すべきだと考えていた出席者も「そうはいっても残るのだろう」という空気感の中にいたことには変わりない。八月の終わりから九月の初めにかけて、国民の総意といったら言い過ぎであろうが、この問題に対する市井の空気感はこんなものだったと思う。だからこそ、ジャニーズ事務所は、タレントたちが連綿と繋いできたプライドが籠った名前である「ジャニーズ」をそのまま残せると踏んだのだ。
それが十月二日に行われた二度目の会見で事実上の廃業にまで追い込まれ、ジュリー藤島氏に至っては、「ジャニー喜多川の痕跡を、この世から一切なくしたい」とまで(手紙という形ではあるが)言い切らざるを得なくなる。
この世論形成が何によって成されたのか。この詳細な分析は後の世に譲るべきものかと思うが、個人的な「雑語り」を許して頂けるのであれば、ひとつは、多くのスポンサー企業がジャニーズタレントの起用を見送る方針を明らかにしたこと、もうひとつは、マスコミの翻意にあると申し上げられるのではないかと思う。
財界からの発言として特に目立ったのは、経済同友会の代表幹事であり、サントリーホールディングス社長の新浪剛史氏。「ジャニーズ事務所を使うと、児童虐待を認めることになる」として「ジャニーズ離れ」推進の旗を振った。
マスコミについて申し上げれば、各テレビ局が「反省の弁」を一斉に述べ始め、ジャニーズとの癒着や忖度、事務所からの圧力の存在を一定の範囲で認めていったことが大きい。ただ、これは、九月の会見が終わった時点ではまだ「綱引きが行われている」というような様相であったように思う。この流れが本格化するのは二度目の会見以降であって、しかしその中でも、TBSは九月中に報道特集を組んで地ならしをしたうえで、会見直後に従来の感覚からすれば相応の厳格さを感じさせる社内調査結果を公表し、「テレビ局総懺悔」の先鞭をつけた。NHKもまた「ジャニーズ勢、紅白出場ゼロ」を発表し、公共放送としての「責任」をアピールした。
ともに、もっともな動きといえば言えないことはない。ポジティブに受け止めるべき面も大いにある。過去の過ちを認めることは、プライドの高い大企業のトップや、テレビ局にはなかなか難しいことである。それを以って、「よくやりましたね」と褒めて差し上げるのも吝かではない。
ただ、一方で、ジャニーズ事務所をスケープゴートにして「不都合な真実」を隠蔽しようとしているように感じられる節もある。たとえば、テレビ局が本当に反省をするのであれば、局内を総点検して、枕営業の噂のある、あらゆる決定権者をいっせいに処分するべきである。噂を立てられるだけでも、民間企業として、また、報道という「インフラ」を担う企業としては大きなリスクを抱えることになるわけだから、即刻、解雇するくらいの気概が欲しい。もちろん、ジャニーズ以外にも、圧力をかけたり、性加害を行っているような「噂」を聴いたことのある芸能事務所があるのであれば、すべて公表するべきである。それが報道機関として目覚めたマスコミ諸氏の使命であろう。(もちろん、女性への性加害も込みで、ですよ。男性だからより悪質、なんて理屈で手心を加えているなんてことは、まさかないとは思いますけれども)
企業のトップは是非、ご自身の会社員人生を振り返って頂きたい。当該会見の度、東山紀之氏の過去のパワハラやセクハラが取り沙汰され、説明を求められるというやりとりが繰り返されている。その内、「セクハラ」として東京新聞の望月衣塑子記者などがその根拠として示していると思しき具体的な証言は、東山氏がかなり若い頃、二十代、あるいは十代の頃に事務所の後輩に対して行った性的ないじめである。
もちろんこれも許されるべきことではない。このような暗い喜びに身を浸したことのある人間が多くの未成年タレントを預るなどもっての他であるし、並外れた倫理観を求められる一企業の社長など務まるはずもない。
即刻解任すべきという意見に、だから私は別に反対したりしない。ただそのかわりに、すべての企業の経営層においては、あらゆるハラスメントに十代の頃から無縁であるという証明をしていただきたいのである。(もちろん、政治家もそれに倣うべきである。それにしても、細田博之前衆議院議長の辞任会見は本当に酷かった。あんなにも酷い会見に、お目覚めになったはずのマスコミ諸氏が何故お怒りにならないのか、まっこと理解に苦しむ)
先に触れたサントリーの新浪氏などに対しては、早速、過去のパワーハラスメントの「噂」が報道され始めているが、それを以って企業のトップを降りるべきだと責め立てている記者はいないようである。このダブルスタンダードは一体何なのだろう。
繰り返すが、ジャニーズに対して厳しい目が向けられていることに私はなんら反対はしないし違和感もない。ジャニー喜多川氏の極めて悪質な児童虐待と、社員への指導が行き過ぎたことで生じた「不幸な誤解」を一緒にするべきではないという戯言にもつきあってあげたって構わない。
ただ、四捨五入すれば還暦になるヒガシの若き日の過ちと、新浪氏に代表される「上級男性」の、今もまだ継続中かもしれない部下への「かわいがり」がどう違うのかについても、あわせて考えるべきではないか。少なくとも私には、両者の見分けはつかないし、十代の判断力で犯してしまった過ちと、それなりの社会的地位を得てもやめることの出来ない、自分では「佳きこと」と思い込んでいる理不尽な暴力とを比べれば、明らかに後者が罪深いように感じられる。この社会がヒガシを糾弾するのが妥当だと決めたのならば、この国の男性経営者(性別は関係ないのかもしれないが、あえて男性と言い切ってしまいたい)のすべてが多かれ少なかれ、「ヒガシの眷属」であるはずなのだから、彼らもまた、裁かれるべき存在のはずである。
故に、私たちは、彼らのすべてをこの世界から退場させなければならない。ジャニーズがこの世から消えた、それが妥当なのだとするならば、男たちがつくってきたあらゆるホモソーシャルな文明は根こそぎ滅ぼさなければならない。それこそが人類の人類たる務めと言えるのではないか。
そんなことを考えさせてくれるのが、藤島泰輔『孤獨の人』(岩波現代文庫・品切)だ。作者は先代の天皇陛下──上皇さまの「御学友」であり、この作品は学習院高等科における「皇太子のいる教室」の実態を描いた異色青春小説である。
主人公の千谷吉彦は「爵位」を持たない中等科入学組。学習院では、とりわけ、「宮」のいるクラスにおいては、予め一段下に置かれる身分にある。そんな吉彦がある日、「宮」の側近たる京極にこう声をかけられる。
「殿下がね。貴様のこと、どんな奴だって聞いてたよ……友達を増やしたいって言うんだ」
この物語は、平民出身の主人公がこの申し出に心を乱されながら、最終的には「宮」のダンスのお相手として「女のステップ」を踏むことになるまでを描いた立身出世譚──シンデレラストーリーと整理出来なくもない。この小説に出てくる登場人物の全員が、公然の秘密として「男色」を嗜んでいる、少なくとも、ボーイズクラブにおけるお定まりとして受け入れていることを踏まえると、この小説は半ば本人公認の皇室ナマモノ二次創作BLであるとも言える。
しかし、では、この二人の心の交流や徐々に惹かれあう姿、距離を縮めるプロセス……そんなものが描かれていくのかというと、そこはまったく描かれない。二人の距離は決して縮まらない。しかし、ふたりの関係性は、築き上げるまでもなく、予め強固に存在しているのである。
主従。あるいは、偶像と崇拝者。
そして「宮」とその関係を築いているのは、なにも吉彦だけではない。
側近の京極は言わずもがなであるが、現・親友としてクラスに君臨する岩瀬、初等科からの馴染みであるにも関わらず「宮」との距離をまったく縮めることが出来ずに「側近の輪」に加われないことを恥じて嫉妬し続ける舟山、同じく初等科からのつきあいで、その頃から餓鬼大将として知られながらそれ故に頑なに「宮」を遠ざけ不良グループの首魁におさまっている矢津、「宮」を人として愛してしまったが故に、その傍らより去ったかつての親友・水野……
彼らに共通しているのが、彼らの日常のすべてが「宮」を意識することで成立しているということ……もう少し踏み込めば、彼らの「生」のすべてが「宮」のためにあるということだ。
たとえば、親友の岩瀬は、「宮」の恋愛への、女性への興味を、人間のあたりまえの欲求として学級世論に受け入れさせるべく《男女交際の限界をめぐって》なる自由討論を企む。プラトニックラブでは足りない、肉体関係も含めた男女交際を奨励すべきだ。我々はそういう年頃なのだ。かつて、この学校が性的倒錯の巣であったことを誰しもが知っているはずだ。そしてそれは、我々が「女の子とつきあってはいけない」との禁則の中で生かされているがために生じている過ちなのだ。……滔々と、男女交際奨励の妥当性を語り上げていく岩瀬に吉彦は激怒する。岩瀬はかつて吉彦の念弟──稚児であった井沢を略奪したのだ。はらわたが煮えくりかえるような思いの吉彦。しかしそれは決して、井沢を奪われた過去が思い出されたためだけではないだろう。男を愛する男としてのアイデンティティを捨ててまで「宮」に殉じようとする岩瀬に、未来の自分を重ねたが故の同族嫌悪が吉彦をどうしようもない怒りへと走らせたのではあるまいか。
そして怖くなったのだ。かつて死に物狂いで少年を愛し、その少年を略奪することに心血を注いだ(とはいえ、わずか三か月で岩瀬は井沢を捨てるのだが)二人が、「宮」の前では、その思いを否定しなければならない。何故ならそれは「宮」が決して性的倒錯になど陥ってはならないという「責任」を背負わされているからだ。
岩瀬はさらに自身の男女交際すらも「宮」の意志を忖度しなければ進められないと考えてしまう。「宮」は恐らく岩瀬の逢瀬を愉しく聴く。そして同時に、寂しさを覚える。親友の岩瀬が自分よりも大事な者を得ているということに不満を感じる。岩瀬はそれに罪悪感を覚える。その罪悪感が女との関係深化を急がせる。突然唇を奪い、首筋を咬んだ岩瀬を女は激しく拒絶する。
「信用してたのよ……あなたが御学友だから」
自信満々という口調に、岩瀬には聞こえる。怒りにかられた岩瀬は叫ぶ。
「人間なんだぞ、立派な。俺が人間なら、殿下だって人間だ」
こうして「人間」として結ばれたはずの二人だったが、この恋は岩瀬が「御学友」であるが故に破綻する。そのショックで自殺未遂を図る女。岩瀬は女を探しながら「宮」のことを考えている。「宮」にとってみれば、岩瀬が女を愛することは、岩瀬が自分から離れていくことを意味する。「宮」の頭の中は今、嫉妬で埋まっているのではないか──そんなことを思いながら追いかけていった先で、件の女は既に事切れている。もう助からないと思いながら女の身体を運ぼうとする岩瀬。そのとき、不意に悟るのだ。
俺はこの女を愛していない。最初から愛してなどいなかった。
そして、理解する。
だから、この女は死なないだろう。
実際、息を吹き返す女の描写が続く。このあたりの筆致は、ガルシア・マルケスなどが用いるマジックリアリズムの手法を思わせる。岩瀬が愛せば女は死に、愛していない、元より愛していなかったと認識することで女は生き返る。それを左右するのは「宮」の嫉妬だ。「宮」の「人間性」を世に知らしめんと全生活を捧げている親友・岩瀬はその実、「宮」の感情がマージナルな効果を生むとも信じ切っているのである。
吉彦もまた、女との逢瀬を重ねている。やんごとなき出自を持ちながら、今は外国人の妻として水商売を営む叔父の前妻である。吉彦は彼女を愛しながらもその身体を征服しようとはしなかった。吉彦が一線を超えるのは「宮」と踊ったその夜のことだ。
それは、あらゆる感情が「宮」への思いに上書きされ「女」にさせられてしまったことへの意趣返しのようでもあり、やんごとなき女を抱くことで同じくやんごとなき「非人間」で在り続ける「宮」の傍らに立つための禊をすまさんとしているようでもある。
いずれにしても、この小説に出てくる男たちにとって女との経験は、「宮」の御学友で在り続けるための通過儀礼に過ぎないのだ。
もうひとつ、「宮」への献身を描いて印象的なシーンをあげたい。
ある日、「宮」のスキャンダル写真が週刊誌を飾る。それは、「宮」の思い人とされる女性との幼稚園時代のツーショットであった。
この写真の流出をめぐって、側近の京極は初等科からの同級生たちを招集する。写真を提供することができるのはこの中にいる誰かだと、そこに集まった者は皆確信している。犯人と断定されればこの集まりからは外されてしまうだろう。ランキングが変わり、クラスの秩序が乱れる。
京極の裁定により、犯人は、ここにはいない誰かだということにされる。吉彦である。吉彦はかつて、この記事を書いた記者の愛人だった。
その事実を知り猛反発する吉彦。京極は、吉彦が犯人でないことを認める。
「俺たちは仲間から罪人を出したくなかったんだ。たったそれだけの気持だったんだ。仲間から……初等科から来た仲間が、一人葬られれば、殿下はいい友達を一人失うことになるんだ」
怒りを滾らせつつも、京極の正直さに感服する吉彦。謝ってくれさえすればいいと伝えるが、それには京極が反発する。
「俺は厭だ。謝るのは絶対に厭だ。俺は正しかったとは思わなくても、貴様が充分に理解してくれるものと思っていたんだ。だが、わかってくれないのなら仕方がない。それでも謝るのは絶対に厭だ」
ここには秩序を守るためならば罪を犯しても構わないと信じる者の狂気と矜持がある。この国の男性社会を象徴するかのような所作である。
では、そうした男たちの献身に対して、「宮」はどう応えるのか。
「宮」は、ただ、「虚ろなところのない、優しい眼」をする。
「愛するようになる」と、吉彦は思う。
ところで、作者の藤島泰輔は、ジャニーズ事務所に「女帝」として君臨したメリー喜多川の夫である。一九六二年、渡辺プロダクションに間借りして始めた小さな事務所が後の栄光を手にすることが出来たのは「御学友」たる藤島の威光が大きかったと伝えられる。もちろん藤島は、元の家庭を捨ててまで添い遂げたメリーのことを愛していたであろうけれども、その人脈を惜しみなく捧げた理由が、ただ家族への愛だけにあったのだとは考え難い。
「御学友」がジャニーズ事務所を強力に援助した本当の理由。その秘密が、この『孤獨の人』にはあるのではないか。
即ち、藤島泰輔は、ジャニー喜多川のつくりあげようとしている男性アイドルたちの楽園に、在りし日の学習院高等科の姿を幻視したのではあるまいか。あの、ある種の諦観の中で営まれる混沌とした日々。そこには確かに、甘く切なく輝く青春があった。
その青春を美しい男たちが再現する。半永久的に再現し続ける。その甘美な夢にかつての「御学友」は、浸っていたかったのではないか。
さて、ここまで読んでくださったあなたは、こんなことを疑問に思われるかもしれない。
なるほど。しかし、ジャニーズが学習院高等科であるならば、ジャニーズにとっての「宮」とは誰だろう?
ジャニー喜多川そのひとだろうか。確かに、そう見えるところもあるだろう。しかし、『孤独の人』を読む限り、ジャニーの役割はむしろ「宮」の崇拝者たる御学友に近い。少年たちに愛され、少年たちを愛しながら「宮」を奉りやがては大人になっていく御学友たち。
ただひとつ違ったことは、ジャニーが決して大人にならず卒業しない永遠の御学友でありたがったということだ。
それならば「宮」は、誰かひとりが、特定の個人が務められるものではあるまい。
そう。
ジャニーズにおける「宮」とはつまり「アイドル」だ。
時のトップアイドル。常にその主が移り変わる玉座こそが、永遠の御学友たるジャニーが愛した「宮」だった。
「宮」は常に御学友たちの動きのすべてを把握していたことだろう。時に、意に沿わないことや、行き過ぎと思えるような仕儀もあったことだろう。それでも「宮」は彼らを責めず、彼らを排除せず、彼らの愛を「虚ろなところのない、やさしい眼」で受け止め続けた。いや、そうせざるを得なかった。
御学友たちは常に「宮」を傷つけないよう、自分たちの悪事を隠す。隠されているものは、暴いてはならない。
それこそが「宮」の愛。罪深き、愛なのだ。
※掲載誌『ますく堂なまけもの叢書⑮ 高良くんと天城くんとその他の物語 インフラとしてのジャニーズⅡ』販売ページはこちら⇒