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ぽやっと文豪★木山捷平のアンソロ『駄目も目である』がユルい!

よく行くチェーン書店の新刊棚の片隅に木山捷平の短編小説集『駄目も目である』がひっそりと平積みになっていた。ここは売れ筋のラインナップもがっつり全面で展開させながら、ちくま文庫や岩波文庫の棚もしっかり確保し、一部の文学好きにしか刺さらなそうなシブめの新刊もそっと平台に混ぜてくれる。私が子供の頃からショッピングセンターに入っているので、もう老舗といっていいだろう。充実した棚に何度も面白い本を教えてもらった。今回も棚を信頼して購入した。


じわじわよかった。このひとほんとに駄目というか、どこか抜けている。その抜けているところが全然にくめない。とりとめもないように次々と綴られる日常の些細な光景や気持ちの動きが、ゆるやかにまとまったりまとまらなかったりしながら、のんびりとした空気感をつくっていく。

誰にでもオススメ!というわけではない。
どの短編も、明確なストーリーもヤマもオチもあるようなないような感じだ。
はっきり言って読んでも読まなくてもどちらでもいい。人生に大きな影響を及ぼすような作品ではない。それでいて、なんともいい味わいがある。定食についてくるひじきの煮物みたいだ。ヒレカツや唐揚げみたいな主役ではない。あってもなくてもどっちでもいい。でも、味噌汁の隣あたりのすみっこに小鉢に入ってひっそりあったら嬉しくなる。食べても腹はふくれないけれど心が少しふわっとするような、そんなよさがある。読書というもののあたたかさ、ゆたかさをしみじみと味わえる。


このアンソロジーには随筆も私小説も創作小説も収められているが、どの作品にも共通するのんびりとした文体は全然かわらない。ゆるがないあたたかさ。

木山捷平は太平洋戦争も終盤の時期に仕事のために満州に渡り、しかしついに現地で徴兵されていよいよ明日はソ連軍と交戦……というところで終戦を迎えたという。運がいいのか悪いのかという感じだが、そんなエピソードを悲惨さをまるで感じさせずに描く。大変な状況のなかでも確かにあった人間のささやかな優しさや温かさや間抜けさを感じさせる。その眼差しは、戦後日本に戻ってからの話でも、妻に威張っているようで上手いこといなされているような軽妙な夫婦のやりとりの話でも、年老いた日々の暮らしの話でも、文豪仲間との思い出の話でも、ゆるがない。

木山捷平は太宰治や井伏鱒二ら文士達と交流があった。そんな文豪達の様子が分かる作品もあって純文学好きにはちょっとうれしくなるような面々が登場する。あの太宰治も木山捷平と話すときは優しげだ。木山は人をなごませるひとだったのかもしれない。


そんな木山捷平のユルさにすっかりハマッた。しかし最後まで読んで巻末の編者岡崎武志による解説を読んだところ、木山は戦中のダメージから帰国後も神経衰弱症や指の怪我に苦しみ、貧困の中でも彼を支えた夫人からすれば木山は気難しい人間で、彼を支えるのは大変だった様子が伺われた。作品はとぼけていてあたたかくても、本人は決してそれだけではなかったのだと知った。

けれど作品にはそういうところが全然感じられなかった。考えてみれば満州で終戦を迎えて無事に生き抜いて日本に帰ってくる過程で大変なことが全然ないわけがなく、また実際それを念頭に思い返してみれば生活の厳しい様子の描写も確かにあったのだが、木山の筆からは苦しさや辛さよりも人間のあたたかいやりとりや日常のささいなユーモアのほうが強く伝わってくる。

木山がそのように書いたのは本人の気質としてそういうふうにしか書けなかったのか、自分で意識して徹底してそのように書いていたのかは私には分からない。けれど、だからこそ木山捷平の作品には、ひとのよさみたいなもののゆるぎなさがあると思う。

逆境に耐えた苦労、悲しみの果てに、それでも残るあたたかさ。今の世の中では簡単に見失ってしまいそうなもの。木山捷平の作品はそのぬくもりを伝え続けてくれる。こういう人間性みたいなものを忘れずにいられたら、世の中はもっと優しくなるのではないだろうか。私もそんなふうになれたらなぁと思ったのだった。

人間の苦しみや悲しみに迫った作品ももちろんひとの心を救う。そういう作品も必要だ。私もそんな作品に何度も何度も救われてきた。また一方で木山のようなやり方もある。これは方向性の問題で、いろいろな書き方があればあるほどいいのだけれど、私がなにか書けるとしたら、私は木山タイプのようなものも書いてみたいのかもしれない。なかなか素人がたどり着ける境地ではないだろうけれど、いつか木山のような味のあるものを書けたらいいなぁ。

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