沼津の芹澤記念館を訪ねて
孫(小学四年生)の夏休みも終わり(2021年の夏)に近づいたある日、静岡へ、孫を連れて二人で旅に出た。天候は余り良くなかったが、クレマチスの丘のヘルベール美術館、井上靖文学館、などを目指し、三島駅の定時バス乗車予定していたが、コロナウイルスの影響か臨時休止だった。仕方なく、休日の表示なしなのでタクシーにしたけれどクレマチスの丘もすべて休止であった。孫を連れてややとまどい、草臥れたけれど泊りは沼津市なので、一先ず、旧国家公務員保養所Hホテルに行くことにした。
沼津駅で降りて、取敢えず寿司・そば屋で昼食をとった。孫のほう寿司に目がなく寿司とそばセットを頼み自分のほうはそばだ。「寿司を本当においしそうに食べてるね~」と、隣席の小生と同年齢老夫婦がほほえましく見ていた。しかし孫はさすがにランチメニューの量多く、寿司3個をじーじ食べてよ、と言われ、勿体無いから美味に食した・・・食べ過ぎだ。
そして水族館などをみてホテル到着、駿河湾沼津港、海岸線ホテルの地続きである。部屋は駿河湾一望であった。翌日は帰宅途中「芹沢光治良」記念館に回ろうとフロントに行って伝えた。親切にも駅までの送迎バスで行ったところで小生に記念館までお送りしますと言ってくれたので孫と二人で感激しお礼を述べた。記念館は静寂な木々に囲まれていて彼の文学者らしい風格のある建物が記念館となっていた。内部はそれほど広くはないが彼の哲理の風潮が全室に漂っていた。芹沢の来歴をそこで詳しく魅入った。
彼は静岡県駿東郡楊原村我入道(現在沼津市)にて1896年生を受けた。生家は網元、1900年父が天理教入信、伝導生活に入ったため、叔父夫婦に育てられた。
1915年沼津中学校入学(現在の沼津東高校)、1919年第一高等学校仏文科卒、1922年東京帝国大学経済学部卒、1921年には高等文官試験行政科、1925年農商務省を辞任、仏,ソルボンヌ大学入学金融社会学(シミアン教授・Francois Simiand)を学ぶ、結核に罹患、スイス・レザンのサナトリュウムで療養、
実際には第一高等学校仏文科の時代も肋膜と胃弱で悩んでもいる。しかし、長命(96歳没)の人であった。小説家・文学者になることを望んでいたのだろう。フランス文学に相当傾倒していたようでフランスの社会・や歴史に興味を深めていったようだ。
また、生と死、そして人間愛の問題に対峙、掘り下げ、そこに彼の哲理があった。小説「パリ燃ゆ」「ブルジョア」「巴里婦人」など、また言うまでもないが哲理から発する
「死の扉の前で」「神の慈愛」「神の計画」「人間の幸福」「人間の意志」「人間の生命」「天の調べ」、また「愛と知と悲しみと」や「人間の運命」「我に背くとも」などがある。
ヨーロッパに読者が多いのもよくわかる。フランスはナポレオン時代の教育制度において高等学校において、哲学は必修科目になって、現代に至っている。仏人神父にとっても神学校で「哲学」の学習は必須であった。その系統を芹沢もよく知っていたのはごく自然だと思う。また人間本質の追及にはいわば哲学は厚い背景になることは言うまでもない。
「巴里に死す」はフランス語訳を出版、世界的名声を受けて、ヨーロッパではよく読まれノーベル賞候補にも挙がった。
今でもフランス文学、フランス語の学習者、研究者の若者に魅力を与えている。
ロートルの自分も彼の哲理と小説を改めて読み直してみたいものである。
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