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#28 お道は「先生」になってはいけない

世の中には、「先生」と呼ばれる職業があります。

教師、医師、弁護士、政治家、芸術家、漫画家etc…

天理教の教会長や、本部員なども「先生」呼ばれることが多いと思いますし、自分自身も先生と呼んでいることが多いです。

では、なぜ「先生」と呼ばれるのか。

人は、何かをしてもらう相手に対して「先生」と言ってへりくだるそうです。

そして、してもらうというのは「先生」から「非先生」への一方的な働きかけであると思います。

医者に病気を治してもらっても、患者が医者の病気を治すことはありません。(そもそも資格がいりますよね)

天理教の場合は一方的な関係性なのでしょうか?


丹精に関して、泉東分教会の村上領一先生は、

丹精とは、こちらが親の心と一つになるということです。われわれは先生になるのやない、親の心に近づくんですね。そのためには、相手の心に溶け込んで、共に苦しみ、共に祈り、共に喜びを分かち合う。これが一番大切なことです。
 自分を無くして相手に溶け込むということですね。だから、丹精しただけ親の理に近づけるのです。

村上領一 『これからこれが仕事や』p129-130

先生になるのではなく、親の心に近づくことが丹精であると語られています。

自分を無くし相手に溶け込み、共に苦しみ、共に祈り、共に喜ぶ。

親神様は、われわれ人間に対してこのような親心をもって働きかけて下さっていると感じました。

そして、それは一方的に何かをしてもらう関係ではなく、共に歩む関係性であると思います。

一方的な関係性になってしまうと、高慢になり、共に歩む関係ではなくなってしまうでしょう。

こちらから敬意をもって「先生」と呼ぶのはよいと思いますが、「先生」と呼ばれる方は、高慢にならず、心低く、共に歩んでいける関係を築けるように努力していくことが大切だと思いました。



最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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