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#30 おぢばのあるべき姿
おぢばで御用をつとめる際、よく言われるのが「喜ばさずには帰されん」ではないでしょうか。
『稿本天理教教祖伝』に、
この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。
と、記されています。
また、おさしづでも、
皆遠く所から厭わずして来る心だけ受け取って、十分満足与えてやらにゃならん。満足すれば一所やない。世界に映る。
押して、大きな所は銀盃にさして貰いましたら如何に御座りますや願
遠いところから厭わずに帰って来る人々に対して、十分満足を与えてやってほしい。満足すればおぢばだけでなく、国々所々に満足が映っていくとおぢばで満足を与える大切さを諭されています。
これは、おぢはだけではなく、各教会や、何かの行事をするときの受入れ側の心持ちとして大事なことであると感じます。
満足を与えるとなると、来てくれる人に対して、親切にしたり楽しんでもらったりすることが思い浮かびますが、少し違う視点も大切ではないかと思います。
布教師として有名な丸山時次先生は、医者に匙を投げられるほどの身上をいただき、初めておぢばがえりした時のことを、
私はその光景に圧倒された。建物の大きさではない。ここに溢れる清らかな人、懐かしい雰囲気にである。
ハッピを着た人々、打ち続く参拝者の群れ。
「オーイ、兄弟」
こう叫んで肩を叩きたいような衝動に駆られた。
人々の眼差し、人々の話し声、人々の態度、少しもよそよそしさはなかった。人という人が、すべて労わり合ってるのだ。人という人が、すべて自分を忘れているのだ。なんという明るい清らかなところであろう。
私はたまらないに感激に包まれていた。
と、記されています。
この後の文に、「詰所の方に優しくしてもらった」などの記述はありますが、それ以前に、おぢばの雰囲気や人々の態度、お互いに労わり合っている姿に感激され、満足されたのだと思います。
どれだけ帰って来られる人に対して親切に接したとしても、まずは受け入れる側の人間が満足している姿なのか、満足を与え合いたすけ合っている姿なのかが大切だと感じました。
その雰囲気の中に包まれて、親切にされるから帰って来られる人は十分満足するのだと思います。
まずは、同じ教会、同じ家族、同じコミュニティの人達が互いに勇ませ合う。そんな姿を世界に映していきたいと感じます。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。