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秩父路に魅せられて〜困民党を生んだ風土〜

初めての秩父路

 今から40年以上も前のことです。
 
 熊谷の法律事務所に赴任してまもなく、秩父の裁判所(さいたま地方裁判所秩父支部)へ車で行くことになりました。秩父へ行くのは初めてだったので、一人で胸を躍らせていました。
 
 事務所のパートナー達に「秩父ってどんなところなの?」と尋ねたところ、Aさんは「山ばかりの所だよ。」と言い、Bさんは「秩父は埼玉のチベットと呼ばれている所だよ。」と教えてくれました。
 
 秩父が「山ばかりの所」ということは秩父へ行ってすぐに理解できたものの、「埼玉のチベット」とはどういう意味だろう、おそらく辺鄙な所という意味だろうなあ、と自分に言い聞かせ、連なる秩父の山脈を見つめていました。

 まず、秩父へ行く道路には、本当に緊張させられました。山襞と荒川沿いの狭い国道は、当時ガードレールが設置されておらず、川沿いに低い路肩仕切られているのみでした。
 車の操作を一歩誤れば、激流の荒川に真っ逆様です。荒川と崖の間の狭い国道を手に汗を握りながら運転しながら、初めて秩父へ向かった日のことが昨日のことのように思い出されます。
 そんなわけで、目的地の秩父に着いたときには、クタクタに疲れていました。

 この日の用件を済ませた後、せっかく秩父まで来たのだから、と三峰神社まで車を走らせました。
 三峰神社で参拝を済ませ境内から周囲を眺めると、そこは山また山の光景で、よく見ると山の中腹あたりまで耕作され、畑の近くには人家がポツリポツリとありました。

 この光景は、関東の他の山々とは、だいぶ様相が違いました。

 群馬県の赤城山や長野県の浅間山のように雄大な裾野はなく、いきなり畳を起こしたような急峻な山脈なのです。

 かつては、この急斜面の畑に養蚕用の桑が一面に栽培されていたと言いますが、今はいったい何を栽培しているのだろうと山肌を凝視してみたのですが、わからずに後日調べてみようと思い下山したことを覚えています。
 
 あとで分かったことですが、その作物はなんと蒟蒻(こんにゃく)でした。

養蚕と秩父夜祭

 秩父は、養蚕の国です。

 山国秩父では、平地が少ないので山の中腹を耕作し、そこに桑を植え、蚕を飼っていたのです。
 桑は本来高木ですが、養蚕のため新枝を絶えず伐採するので、私たちの目には灌木として写ります。 調べてみると、秩父地方の絹の歴史は古く、古代の律令制社会にまで遡ると言われています。  
 

ちちぶ銘仙館より

 山に囲まれ、耕作地に恵まれず、わずかばかりの耕作地で秩父の農民は桑を植え、蚕を育てて生糸を取り、絹織物に仕立てていたのです。
 
 絹の生産は、秩父の農家の主要な副業とされ、養蚕、製糸から居座機(いざりばた)による織布まで、農家の妻女の手で一貫して行われ、織り出された反物は、秩父の各地(大宮郷、小鹿野、吉田、野上)の絹市で、絹仲買いに買い取られ、江戸の問屋に送られていました。

 絹市のうち、旧暦霜月3日の大宮妙見宮(秩父神社)で開かれたものは、「絹大市」と言い、多くの仲買人や反物持参の農民が集まり賑わったそうです。
 
 この絹取引で潤った商人たちは、大宮郷(現在の秩父市)の祭に、競って豪華な屋台を繰り出し、地元の祭りを盛り上げていったそうです。

 それがいつしか大宮郷の祭りとなり、現在の「秩父夜祭」となり地域に根付いていったのです。

 秩父の養蚕と夜祭は、秩父の名物となり、この二つの関係は有名な「秩父音頭」でも歌われています。
 その歌詞からいくつかを拾ってみましょう。

・桑を摘む手も筬(おさ)持つ手でも 盆にゃ踊りの手に変わる
・秋蚕(あきご)しもうて麦蒔き終えて 秩父夜祭待つばかり
・主(ぬし)のためなら 賃機夜機(ちんはたよばた)たまにゃ寝酒も買うておく

 あれほど盛んだった秩父の養蚕と絹織物は、今ではナイロン等の化学繊維の発展により、秩父絹の生産は、昔日の面影は消え、夜祭だけは毎年盛大に行われているのです。

ちちぶ銘仙館

秩父は祭の宝庫

 秩父には、夜祭のほかにも、たくさんの祭があります。

 名の知られている椋神社の竜勢(いわゆるロケット)祭、飯田八幡の鉄砲祭(小鹿野)等、40余の祭があります。 

 これらの祭りをまだ見たことがないので、一つずつ評することはできませんが、いずれの日にか見聞して、この地方の民俗行事を極めていければと思っています。

道の駅「竜勢会館」

空を飛んでいた鶏

 桑のことを書きつつ、ふと思い出したことがあります。

 私が幼少の頃、沖縄の鄙(ひな)で暮らしており、家の周辺には高木の桑の木がありました。放し飼いの鶏は、夜になるとこの桑の木を塒(ねぐら) にしていました。
 
 そんな牧歌的な光景の中で幼少期を過ごしたものです。私の幼少時、鶏は空を飛び、餌場と塒を行き来していたものです。

 山に生きる人たちのことを「山彦」、海に生きる人たちのことを「海彦」と呼んでいました。
 
 私の故郷の沖縄は、秩父とは対象的に「海彦」の国ですが、この「海彦」の国の狭い土地の大半は、米軍基地に接収されてしまい、見渡す限り金網に囲われている「基地の島」となっております。

 この「海彦」の国である沖縄に、『桑の実』という美しいわらべうたがあります。
 あの黒紫色の桑の実で、唇(くちびる)を紫色に染めて食べた少年時代のことを思い出させる歌です。

 沖縄出身の作曲家「宮良長包」が作曲した歌で、今もなお地元の人たちに歌い継がれています。

 この歌詞を紹介します。

 桑の実   作詞 宮里静湖
       作曲 宮良長包

 桑の実うれた
 みんなしておいで
 緑の葉かげで
 えんやほら  
 えんやほら
 たんとうれたよ 
 たんとうれたよ


短詩で見る山国の光景 


 最後に、文学の短詩の世界では、「山」はどのように表現されているのでしょうか。

 最初は短歌です。
   
   自然がずんずん体の中を通過する
    ーー山、山、山
 (前田夕暮)

 
 この短歌は、夕暮の自由律短歌です。
 夕暮は、1929(昭和4)年に、朝日新聞社の企画により飛行機に搭乗しました。 
 この歌は、この時の飛行体験を詠った1首ですが、速度による感覚の変容が自由律短歌として捉えている歌です。

 

雁坂トンネルを臨む(埼玉県と山梨県を結んでいます)


 次に俳句です。

  分け入っても分け入っても青い山      (種田山頭火)

 放浪の俳人山頭火の自由律俳句です。深い山道や峠を越え、峠を越え、山を越え、歩いても歩いても青い山また青い山ばかりだと詠っています。



  最後は川柳です。

  手づくりの山小屋山が笑ってる        (筆者)

 「山笑う」は俳句の季語で、桜やつつじの花が満開でまるで山が笑っているようだ、と春爛漫の様子を表現する季語です。
 この川柳では、粗末な山小屋を作り得意になっている人間を山が見下して笑っているのです。

三峰神社

【参考文献・資料】
中沢市朗『埼玉民衆の歴史〜明治をいろどる自由と民権の息吹〜』新埼玉社
井出孫六『秩父困民党紀行』平凡社カラー紀行
ちちぶ銘仙館 秩父市熊木町28−1

素敵な建物です


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