学童疎開ってなあに?対馬丸の悲劇〜沖縄本土復帰50周年に寄せて⑥〜
知床半島の遭難事故
去る4月23日、北海道の知床半島沖で観光遊覧船「カズワン」の遭難が報じられました。乗員2名を含む26名の遭難者が出ております。26名もの遭難は、平時においては大事故であり、未だ行方の知れない人々の安否が気遣われます。
「対馬丸」のことを知っていますか?
ところがです。去る大戦の昭和19年(1944年)8月22日、鹿児島県沖の悪石島付近で、沖縄の疎開学童を含む1661名を乗せた対馬丸が、アメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受けて、わずかの時間で沈没し、大勢の学童らが海に投げだされました。
助かった学童もいた様ですが、大多数の学童らは海の藻屑と消えてしまいました。
この対馬丸の沈没は、戦争の最中の出来事であったため、軍部によって長い間、闇に封じ込められていました。
犠牲者は、学童・大人を問わず、全員がないがしろにされてきたのです。
対馬丸沈没によって幸いにも救助された人々は、鹿児島県の病院や旅館に収容されました。
しかし生きのびた人たちは、軍部から「対馬丸が沈没したことは決して話してはいけない。」と「緘口令(かんこうれい)」がしかれていたというのですから本当に驚きです。
また、それだけでなく、対馬丸が沈没した後もなお、沖縄の学童らをせっせと九州へ疎開させていたというのですから、もう語る言葉がありません。
サイパンで、日本軍が全滅してから、時の政府と軍部は、沖縄が戦場となることを予想して、県民に対し九州や台湾へ疎開するよう命じました。
しかし疎開が始まった頃は、すでに敗色が濃く、沖縄周辺にはアメリカの潜水艦が潜んでいたのに、この疎開計画が実行されていったのです。
この事実を知らなかったのは、県民ばかりだったのです。
長い間、封印されていた対馬丸の沈没事故は、戦後ようやく白日の元にさらされることになりました。
私も台湾へ疎開したひとりです
私は、戦時中の昭和18年(1943年)に沖縄で生まれ、翌昭和19年(1944年)に、母に抱かれて海を渡り台湾へ疎開しております。
台湾への航路中、潜水艦の攻撃にも遭わずこうして生き続けているのは、なんとも不思議な気持ちでいっぱいです。
実際に、台湾行きの疎開船の中にも、対馬丸と同様にアメリカの潜水艦の攻撃を受けて沈没している船もあったというのですからなおさらです。
私は台湾に渡ったことで、あの悲惨な沖縄戦にも遭遇せずに、また台湾への渡航の際も魚雷に遭遇せずに、二重の意味で神仏の加護に恵まれていたことになります。
この幸運にただ手をあわせるばかりです。
おわりに
沖縄の本土復帰50周年を迎えるにあたり、戦時の痛ましい対馬丸の悲劇を、沖縄だけでなく全国の人々に知ってもらうことで、戦争の愚かさを知ってもらいたいと思います。
命拾いの子にも厳しい緘口令(かんこうれい)聞くなしゃべるな遭難のこと(短歌)
父母恋し古里恋し疎開の子(川柳)
●参考文献:公益財団法人対馬丸記念会『対馬丸記念館ワークブック』
平成26年7月15日発行