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「自死」という話

「自死」という話
"sacrifice"

「自死は止めようがない」です。

それは、ある種の自己犠牲ですから。

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ようこそ。門松一里です。静かに書いています。

いつもは、
「あまり一生懸命になるな」という話
https://note.com/ichirikadomatsu/n/n081dd28c9a6c
とか、
【「沈黙」という話/「東アジアの思想」という話】リスト(16+36+号外1)
https://note.com/ichirikadomatsu/n/n416e39d84b94
という話を書いていますが、本当はノワール作家です。

という話(ik)

という話(ik)を連載しています。

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ここではあえて、〈自死〉という言葉を使って考えてみましょう。

残された家族が、自分たちが殺めたような感覚になるからでしょうか?

その質問には答えることはできません。
してはいけない類(たぐい)の質問です。

くりかえしますが、「自死は止めようがない」のです。

キアヌ・リーブス主演の映画『コンスタンティン』の主人公ジョン・コンスタンティン(JC)は、キリスト教の自己犠牲を理解していませんでした。

神という存在を(JCには見えますから)知っていても、信じていなかった訳です。

キリスト教の信仰心は、東アジアの思想からは離れています。

西洋思想では「神が存在する」(神がある)というキリスト教それ一色になってしまいましたから、影響はされていますが、本質ではありません。

ですから、東アジアの思想をもつ人たちには理解できないことが多数あります。

その一つが、自己犠牲です。というか、それがキリスト教の根本なのですが……。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のカンダタは一匹の蜘蛛(くも)を助けたので、助かる機会が与えられます。
cf.
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html

はたして釈迦は、他の罪人まで助ける気があったのでしょうか。

カンダタが見た何百何千という罪人は、カンダタが殺めた人たちの幻影ではないのでしょうか。

もし救われたとしても、カンダタは罪を償わなくてはなりません。

東アジアの思想では、罪を償うことが自己犠牲の一つとされます。これはキリスト教の自己犠牲とは考え方がまったく違います。

ジョン・コンスタンティン(JC)は最後に自己犠牲を学びます。
(もっとも利己的な人間ですから、利用したと言ったほうが正しいでしょうけれど。)

同じように、カンダタも罪を償うことを学びます。
「利己とは利他をいう」と最澄が述べています。

ジョン・コンスタンティン(JC)がどうして利己的になってしまったかというと、生まれつきこの世ならざるものが見えたからです。幼い少年の目に天使や悪魔、神や魔王(ルシファー)がうつれば、それは死にたくもなります。

キリスト教のとくにカトリック教会では「自殺」はかなり重い罪です。必ず行わなければならないミッションを放棄していますし、自分であっても「人を殺めている」からです。イコールそれは地獄行きです。
cf.
「沈黙」という話-4【ザ・ミッション】
https://note.mu/ichirikadomatsu/n/n4cc5dd18ffed

ジョン・コンスタンティン(JC)は地獄に行きたくないので、ガブリエルと交渉しますが、そもそもそれが間違いです。神は交渉などしません。アインシュタインも言っています。「神はサイコロを振らない」と。#joke
※大天使ガブリエルではなく、天界のハーフブリードです。
cf.
「隠れた変数理論」

一方で、仏法では交渉可能です。#嘘
(正しくはありません。きちんと見透かされています。)

ジョン・コンスタンティンのJCはもちろん"Jesus Christ"です。なお、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(Jesus Christ Superstar)というロックミュージカルがあります。最高は、モンティ・パイソン『ライフ・オブ・ブライアン』(Monty Python's Life of Brian)でしょう。磔になっているのに、"Always Look on the Bright Side of Life"を歌うのですから。

#blackjoke はそれくらいにして、JCはイエス・キリストです。自己犠牲によって、人類の罪のために十字架に架かりました。そして、三日目に復活します。
※三日後ではなく、三日目です。

13日の金曜日に亡くなったとすれば15日の日曜日です。どうして土曜日に復活しなかったかというと、土曜日は安息日だからです。#joke
※旧約聖書の一日なので、金曜日の日没から土曜日の日没です。

ともあれ、イエス・キリストが宗教裁判にかけられたら異端者になるという #joke があります。
cf.
『空飛ぶモンティ・パイソン』「スペイン宗教裁判」

より詳しい自己犠牲については、また別の機会にしましょう。

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くりかえしますが、「自死は止めようがない」のです。

生きようともがく人間もいれば、死のうと苦悩する人間もいます。努力のしようが違うでしょうといっても、人が生き方を選ぶ以上、選択の自由はあります。

人の生き方をどうこう言うつもりはありません。自分も言われたくありませんから。ですが目の前でしてくれるなです。見捨てれば、見捨てた人の傷になります。

私に自死した身内はいませんが、友を見捨てたことがあります。生きるためでした。言い訳です。それを知ってなお人は生きます。

多くの人は、他を見捨てて、生きています。他国で何人亡くなろうと、自己犠牲を行う人はいません。

それだけ(キリスト教の)ミッションは崇高であり、神の術(すべ)なくしては成功しないものなのです。

「愛してくれる人が一人も現れなくても、貴方が愛せる人は何処でも、何時でも必ず現れる。すぐ傍に居るはずだ」

今は亡き友人の言葉です。

『論語』にも、「徳は孤ならず必ず隣あり」とあります。

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生物が進化の途中で、死を受け入れたという話があります。

ある意味、それまでの生物は不死でした。
※厳密には違います。

死を受け入れることで、危機的な状況から生き残ることができた訳です。

「生命(いのち)のくじを引き当てた者は、死のくじも引かなければならない。なぜなら、生命のくじの当たりは死なんだよ」
——ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』(日本放送出版協会、1995年)P642

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不治の病を患った父が生前「死にたい」と言ったことがあります。

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