お釈迦様の人生5 空気を読まない代表 お釈迦様
お釈迦様が(棄国財位)国の財産や地位を棄てて修行に励み、六年の歳月が過ぎた後、この文字が出てきます。
今回は、国を棄て王位を捐て(すて)とあります。
前回は、「国の」と訳されていますが、今回は「国」そのものも捨てております。
そもそも、この六年の間にお釈迦様に何があったのかが、お経の中では略されています。
お釈迦様はお城を出る時には、幾人かの家来をお供に連れて出ているそうです。
何となく出家という言葉から想像すると、私は昔のアニメの「一休さん」を思い出してしまいます。
また、「探偵ナイトスクープ」で、お坊さんになりたいという、お子さんのお手伝いをした時の話を思い出します。
記憶違いかもしれないですが、西田敏行局長が号泣していた記憶があります。
出家には涙が付き物というのが、私の感覚ですが、お釈迦様の場合は、華々しいパレードの中で出家した様に取れてしまいます。
身分も文化も時代も違うので、現代日本人の感覚しかない私の物差しで、量る事自体が間違いなのは理解できますが、あまりにも私の感覚とかけ離れています。
しかも、家来とみんな仲良く、修行をなされています。
この辺りが、「棄国財位」の修行期間のお話です。
いろいろな修行に六年間挑戦しましたが、納得のいくモノは得られなかったそうです。
修行をやり過ぎて、ボロボロでガリガリになって、川辺に瀕死の姿で倒れていたそうです。
その姿を見た、村娘のスジャータが、お釈迦様のために牛乳粥を作り、与えたそうです。
出された牛乳粥をしっかりといただいたお釈迦様は元気になられ、その後、菩提樹の下に四九日座られて悟りを獲ることになります。
六年間の修行期間から、苦行を辞めるきっかけになったのが、スジャータから施された牛乳粥と言われています。
女性から物をいただく事で、お釈迦様は一緒に修行をしていた仲間たちから、堕落したと言われ、落ちこぼれの烙印を押された、とも言われています。
殺生という言葉がインドに有るのかは知りませんが、牛乳粥自体も修行者にとってはダメな食材だったのかもしれません。
日本の修行僧の居るお寺でも、持ち込み禁止の食材が有るので、食材にも何らかの決め事があったのかもしれません。
ただ、ここで私が思う事は、お釈迦様以外の仲間は、自分達で作り上げた空気の支配に逆らえず、本当は食べたかったけど、「欲しい」と言えなかった、勇気が持てなかっただけの気がします。
一人、空気を読まずに、美味しい牛乳粥をお腹いっぱいいただいた結果として、お釈迦様は孤立無援の状態になります。
私はこの、孤立無援の状態が「棄国捐王」の様に思います。
国は国家とか大きな話ではなく、空気を読みあ思いう仲間とか、身近な人間関係と、読むのは駄目でしょうか。
そして、捐の字は義捐金の捐なので「あげる」とか、「譲る」みたいな雰囲気の捨てる意味です。
表現が適切か微妙ですが、猿山のボス猿みたいな立場をお釈迦様は辞めた様に読めてしまいます。
先回も書きましたが「棄国財位」と「棄国捐王」は「成功と幸福」を表している様に感じます。
「棄国財位」は最初から国に縛られている状態です。
みんなとの修行は楽しいと思いますが、どんな事ができたかという比べ合いになってしまい、仲間に自慢できる、成功を求める方向に進んでいる姿に見えます。
「棄国捐王」は空気を読みあう関係を棄ていますので、自分と向き合う事を大切にしており、誰かと比べる訳では無いので、自己の満足や幸福を求める方向に進んでいる様に思います。
「世界に一つだけの花」という歌は、仏説阿弥陀経が基だという事は以前に書きました。
あの歌は「№1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」から始まります。
仏教を学ぶという事は、自分らしさを大切にして、実践する事だと考えます。
誰かに褒めてもらう事や、誰かの上に立つ事を、目的にする教えではないと考えます。
ただ、お釈迦様も、出家最初の六年は№1を求めていたのだと思います。
ズダボロになりスジャータとのご縁でOnly oneの重要性に気が付いたのだと思います。
真宗では、皆さんの想像する様な修行はありません。
ただ、何もない訳では無く「念仏」が行としてあります。
日常に身を置き、お念仏の教えを護るとは、№1を求める世の中で、
only oneを大切にする事だと思います。
そう考えれば、そこそこ難しい行を求められているとも言えます。
お釈迦様を単なる「立派な人」として見るのではなく
「空気を読む事を辞めて、
豊かな人生を手に入れた人」
と認識して仏教を学ぶ事は、決して悪い事では無いと思います。
お釈迦様のお姿は、今の社会が生きづらい人達にとっては、良いお手本になってくれると思います。
大切な事は、特別な修行を辞めて、日常に身を置く事から始め直したお釈迦様だからこそ、悟りを獲られたという事実です。
日常に身を置かれて、日々ご苦労なされている方にこそ、お釈迦様と同じ悟りを獲るチャンスがあるのだと思います。
合掌
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