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英語ではモノは風景 ー冠詞と名詞について5 日本語と英語のモノの捉え方の違いー

唐突ですが、英語においては「モノは風景の一部」です。
日本人が考えているモノとは異なる認知の仕方をしています。

モノの認知の仕方が根本的に違うことを示唆する現象

ロス典子著「ネイティブの感覚で冠詞が使える」p11と75では
ネイティブと会話していた著者がI like apple.と言ったら、ネイティブは困惑、会話が止まってしまった。しばらく考えた後、"I like apple."は
"What kind of pie do you prefer, apple or pumpkin?"
という質問の答えになら"I like apple."は使えるよ、とのこと。
同p81には
some apple単体では、some appleがどういうものかネイティブはなかなか思い浮かぶことが出来ず、やっと
"Could you please get me some apple at the salad bar?"
という、バイキングのサラダバーで、トマト、レタス、キュウリなど別々のボウルに分けられている状況で、いろんな形の切り身のりんごを思い浮かぶことが出来た、とのことです。


これって、日本人にとって非常に奇妙な現象に思えませんか?単語が指すものが何かイメージできないって。

それなのに
デイビッド・セイン著「英文法、ネイティブが教えるとこうなります」では
She put (some) apple on top of the yogurt.
とan appleとappleの違いを示すために、普通にsome appleを用いて説明しているのです。


なんとね。
これには驚きました!!

ネイティブが想像し難いsome appleをなぜ、ネイティブ自身がShe put some apple on top of the yogurt.と、普通に用いて、文にできるのか?

なぜなら、我々日本人にとって、モノがどんなモノか想像できないモノを、文章や言葉に使うことができないからです。日本人にとって、モノが何かわかっているから、想像イメージできて、だからこそ、それを用いて文章、言葉にすることが出来るのです。
つまり、この現象は、モノの認知が日本語と英語では、根源的に大きく異なると言うことを意味していることに他なりません。

さらに、注意深く観察すると、上述のような、ネイティブが想像できないモノを無理くりイメージさせるとそれは、モノそのものではなくて、そのモノがある状況です(同書には同じような事例が幾つも出てきますが、ネイティブはモノそのものではなく状況を言っています)。

これはつまり、モノとは我々日本語ネイティブが考えているモノとは違っていて、英語では『モノとは風景の一部である』と言うことを意味することにならないでしょうか。
そうでなければ、モノを風景、背景とみなさなければ、これらの現象の説明が付かないからです。
しかし、このことは、重大な意味を孕んできます。
というのはこの理屈が真であるとするならば(日本語ではモノは単体でもその存在が許されるが)、英語に於いてはモノは風景なので、その単体だけでは存在できない。と言うことに成りかねないからです(風景はモノ単体だけでは成立しない)。

そ、そんなバカなっ!?

しかし、よくよく考えてみると、インスタ動画でネイティブが指した冷蔵庫は、キッチンルームで今視聴者に冷蔵庫を説明している状況です。ネイティブが指したテーブルやりんごは戸外の芝生生い茂り晴天の公園という状況です。
辞典であっても、ページに描かれたリンゴは、たしかに一個だけのりんごですが、それは辞書の中の紙に描かれた絵であり、学習者がリンゴはどういうモノかを理解するための状況です。
そうなのです。モノ一個、単体だけでは存在していないのです(「ネイティブの感覚で冠詞が使える」の例でも確かにネイティブはモノ単体を風景の一部(状況)として説明しています)。モノが単体で存在している場は、話者の頭の中だけです(このことが英語では物質を「概念」と「物体」に分けているという結果に繋がります)。
つまり、そのくらい日本語と英語ではモノの認知が異なる可能性があると言うことです。
※先のロス典子著作の中で、" waters "はどんなイメージか?と質問すると、ネイティブの言語学者は、かなり長い間考えた末。「さまざまな異なる時(時期)を通して、さまざまな川や地下水などから、さまざまな種類の水が流れ込んでいる川や湖、海などの大量の水」と表現。
→つまり、「watars」という水そのものの説明では無く、その水が存在する状況=背景を説明してます。


以上ふまえると、以下のようなことになります。
日本語のモノの捉え方は言わずもがな、あなたがこのnote記事を読んでいるのは、タブレットをあなた自身の手で持っていて(持っている腕も手も、それをなぞる指先も見えている)、そこからこの文章を見ているという、一人称視点です。
しかし、英語は、数々の書籍や言語学者が指摘しているように、自分をも登場させている俯瞰視点(神の目視点で)で認知している。画面(舞台)に『わたし』が登場して、わたしが何かを持っているのです。※詳細は「冠詞は俯瞰認知するための因子」をご参考下さい。

さらに、英語は"noun"は「体」を表さない(日本語の場合、名詞はモノのそのものの名前なので、りんご=モノの形ですが)。だから、意識をする対象に焦点を合わせはっきりさせるからこそ、ハッキリさせるための形、ネイティブが『共通に認識している形』が必要になってくるのです(そうでなければ、聞き手には、何かある事は判りますが、どんな形態かわかりません)。それが単元(モノの最小単位)なのです。
この俯瞰認知は、「冠詞は俯瞰認知するための因子」、「英語のモノには最小単位という概念がある」さらに「英語はモノに対して常にカテゴリー分類する」記事に繋がります。



"a"と無冠詞との違いを"a ham"、"ham"や"a chicken"、"chicken"の例で示すことがよくありますが、ネイティブが"(some) apple"単体では、それが何かなかなか想像できないことから、"ham"や"chicken"も単体では想像できないはずです。友人たちとワイワイ、ガレージの前でBBQをしているという状況、"a ham"と"ham"との違いをネイティブと話し合っている状況だから、それが「ハム料理」、「チキン料理」とネイティブが推測できるわけで、唐突に"ham"、"chicken"の単体では、"apple"と同じように、ネイティブは困惑しすぐには想像できないに違いありません。
先のロス典子著書p75「限定詞を使わない、sもつけない'apple'と聞くと、ネイティブは、"apple pie", "apple juice", "apple jam"のように、形容詞としての"apple"を思い浮かべる」ということから、やはりnounはラベルに近いものでしょう。
nounは日本語のモノの名前と違いますし、英語にとって物質は風景なので、日本語の物質のように単体でその存在を許されない。つまり、日本語のようにham=ハム料理、chicken=チキン料理と「確定する」のは間違っているとは言わないまでも、日本語と同一視する危うい認識だと思います。

モノを風景とみなすから、意識するモノに限定詞でハッキリさせてnounで確定させる。だからこそ、そのハッキリさせる形が必要で、ネイティブが共通に認識している形(=単元)があるのです。さらに、そのような機序でモノを確定するから、同一規格上のドレを指しているのか?になってくるのです。※さらに具体的な詳細は「英語の名詞はラベル」をご参考下さい。
ようするにこのことは、aとthe、はたまた関係代名詞の制限用法にも繋がってくることになるのです。

冠詞は俯瞰認知するための因子」に続きますーーー→

ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!!

※※
言語が違うというのは結局
モノの認知の仕方が違う、世界の認知の仕方が違う。だから、表現が違う(=文法が違う)。と言うことに集約される気がします。
となると、土台としてやっぱり、まず日本語との違いをしっかり認識することが必須になってくるのではないでしょうか。

違いを示さない
日本語に訳すことが最大目的
文法用語のダブスタ

現日本語英語教育が行っているこの三大問題(と私が勝手に思ってる笑)は、日本語と英語を同一視することを強化する行為であり、それは、ハードディスクのパーティションを分けずに別のOSを強引にインストールする混乱必至の行為と同意ではないでしょうか。


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