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日本語英語教育に物申す 〜なぜ英語を習得出来るようにならないのか〜


中高のみならず、大学・社会人になっても専攻は違えど散発的に英語を勉強をしてきたのに、習得し自由に使いこなせてるとは言い難いもどかしさ。漠然と感じているそれを、言語化することによって、原因を浮かび上がらせ、その解消を目指します。

まずはじめに、日本語英文法用語について挙げてみたい。
日本語の英文法用語は、日本の英語黎明期に、先人達が苦労して、日本語をあてたり、作ったりした造語だと思いますが、ーーーいや、この際、大胆に言わせて欲しい。極めて特殊な人間だからこそ、あの当時(明治初期?)英語を習得した。その特殊な人達が、英語を体系化。彼らは、まさか、その後、同胞日本人全員が学ぶとは夢にも思わなかったに違いありません。なぜなら、矛盾が多く、体系化されているようで各項目バラバラで体系化になっていない。そう、まるで一般化されていないからですーーー、その造語を構成する言葉自体が、英語とズレている(最も根幹である現在形、過去形ですら違う)。我々日本人は、日本人だからこそ、どうしてもその言葉、漢字を見た瞬間、その日本語の言葉の概念に引っ張られてしまうのです。

どう言うことかと言うと
知らない概念、初めて聞く言葉や言い回しを理解する時ーー幼少の頃ーー、どのような感じだったのでしょうか?
ずいぶんと久しく体験していないので忘れてしまいましたが、たぶん、頭の中に、絵や動きを想像して初めて『わかった!!』と理解を得たのではないでしょうか。
それを無意識下に落とし込み、絵や動きを想像せずとも反射的に理解するようになっていたのだと思う。
大人になった今では、新しい概念等を理解する場合、そういうことを全くせずにいます。なぜなら、自分の中の過去得てきた無数のそれら反射的理解の組み合わせで、新たな概念的理解を得てしまうからです。
だからこそ、今、大人の私たちは、過去に得てきた概念を駆使して、英語を理解しようとするのです。

しかし、その反射にすら成った言葉の概念自体が、英語と日本語ではズレている、異なっているために、理解の妨げる大いなる足枷(もしくは誤認をさせ混乱させる罠)になってしまっているのです。
ただ、信じられないことに、それが全く問題にならない人たちがいます。それが障害にならない特殊能力、それは言語能力に優れている人ギフテッドです。

と言うことは、つまり、現日本語英語教育は、修学前提として言語能力が長けている人以外は門前払いということなのです(当然のことながら、このことに言語学者は気づき言及してはいるが、修正しようという機運が一向に無い。なぜなら、彼らは、高度な言語能力を持っているために、まったく問題になっていないからです)。

さらに、根本的に、現日本語英語が構築(目指す)する言語構造が混乱をきたす原因になっています。

例えば
英語は時制を極めて重要視し、時制を軸にする言語構造とされている。
しかし、本当に実情はそうなのでしょうか?

そうとはおもえない。もしそうであるならば、過去形や現在形に時制以外の意味を持たせないだろうし、未来形だって明確にあるはずです。
あの助動詞の時制の扱いの不明瞭さはなんなんだ!?
これは、本邦日本における英語教育自体が、英語を、「時制を絶対軸として置く言語構造」として教育しているから生じているに他なりません。
さらに、瑣末なことですが、完了形、仮定法が日本語には無い概念だとハッキリ言い切らない。
それでは、なぜ無いのか?言語は違えど、同じ人間で同じ世界で同じ時代に生きているのに、重要な事柄が有ったり無かったりしていいはずはありません。

過去形は現在と『繋がっていない』(遠い、影響しない)としながらも(完了形を説明するときなど)、一本の『繋がった線』として理解させようとする矛盾。
過去形、現在形が日本語の意味とは異なっていると指摘しておきながら、その言葉を使い続ける。
また、一方、認知が違う(日本は独白、一人称視点。英語は俯瞰視点)、構造的認知が違うとしながら、その後の文法説明は旧来、従来の文法認知法を踏襲しています。そのため、余計な概念を背負い込み混乱を助長することになってしまっています。と等々、、、、。

多種多様な罠が多すぎるっ!!!


それを一つもかからずに、もし、かかってもすぐに抜け出し、正しい道に進むには、特殊能力が絶対に必要です。これでは、一般人がゴールに辿り着けるわけがありません。

しかし、言語能力が優れていないと英語が習得できないというのはあり得ない。
なぜならば、ネイティブは幼稚園児でさえ自由に使いこなせているし、日本人でもネイティブ環境で生活すれば使いこなすことが出来るからです。

ーーーなるほど、大人になってからの語学学習は困難だという、もっともらしい数々の理由は確かにあります。が、それを十分考慮しても、それは日本の英語教育がなっていないと言うことを隠すイイワケにしか成らないと、断言したくなるのは当然の帰結です。そもそも、そもそも!英語をある程度理解できる様になるには最低3000時間以上必要とされている。が、これでは理屈や法則によるものではなくて、反射による習得であろう。もはや学問もへったくりもないではないか!しかも、英語を使いこなせている日本人は、まず海外生活ないし留学経験がある。これは一体どう言う事だ?日本で3000時間近く勉強し続けた人と、そうでない人が英語圏で生活し、英語に不自由しなくなる時間は、そんなにかけ離れているのでしょうか?もし大差ないならば日本での英語学習の膨大な労力は何だったんだ?無駄だったのか??

『いや違うっ!!』

とエルビン団長のように本当に喝破できるのでしょうか?ーーー。

閑話休題汗
ということは、やはり、現日本語の英語教育は、高度な言語能力を所有している人たち専用の学習方法であって、万人向けでは無いと言い切ってもいたしかたありません。

このように、現在の、言語能力に依存する英語学習では、結果的に個人の言語能力のレベルでしか英語を理解できません。
確かに、生まれ持った能力とは別に、努力で後天的に会得すると言うこともありましょう。

しかし、現日本の英語教育には、それは当てはまらない。

私がウサイン・ボルト並の9秒台は走れない、とは言わないまでも12秒台(運動部の俊足レベル)は無理なのです。どんなに努力しても14秒台に乗るのが限界でしょう。
というように言語能力のスケールは同じなのです。
そう、現行の言語能力に依存する英語学習を行っている限り、苦難こそあれ、私はガンダーラへは絶対に辿り着けないのです。

ではどうしたら良いのか?英語ができない、よくわからないと感じたならば、その理解方法は自分には合わないという原因が判明したんだから、解決するにはそれを解消すればよい。つまり、方向転換し、別の手法を取れば良いのではないかっ!!

しかし、日本には過去から現代に至るまで、あまたの英語学習書物がありますが、これらはすべて、一番最初の始祖の英文法書を堅持に踏襲したバリエーションに過ぎません。
現代の高度な情報世界のネットでも同様、現行の手法でしか学ぶ方法がない。

つまり、ググっても、書店に行って、どの英語学習書を取っても、それはバリエーションの違いであって、全て同じなのです。ようするに、日本国内にいる限り、別の理解方法を選べない。
つまりは日本は、天山山脈よりもはるかに高い鉄壁に囲まれており、三蔵法師でさえも越えることができない状況なのです。

そう、英語学習者にとっては、日本は、まだまだ暗黒の混迷の時代なのです。

あらためて考えてみると、英語を日本語に訳して語学を勉強させようとするのは、極めて由々しき問題です。
他言語が、言葉の概念、意味が日本語と多少ズレているのは当然ですが、その言葉がつながった文が、ピッタリ日本語の一文と合うのはミラクルでしょう。
だから、どういう事を言っているのか、どのような描写をしているのかが重要であるし、それが語学学習の本質ではないでしょうか(英文を見て日本語が浮かんでくる事が本質ではないだろう)?

であるのに、現日本語英語のように、日本語に強引に当てはめようとするのは、逆に日本語の言葉の概念の修正を強いることにもなり得るということです。
これは、非常に困難なことです。
なぜなら、日本語の言葉の概念を変えることは絶対に出来ないからです。

それは、言葉の概念を変えてしまうと、逆に母語の日本語が成り立たなくなってしまうからです。

だから、この英文がどう言うことを表現しているのか?という事を念頭に置き、認識することが、語学学習にとっては絶対です。
要は、よく言われている『日本語に訳さないで理解する』と言うことです。
しかし、何を言っているのかを理解する為には、日本語に訳さなければならないというジレンマあり、さらに、何を言っているかを理解するための、英文法用語という道具が、日本語の言葉を使っている為に意味がズレているという、極めて根源的な問題を内包しているのです。

これが、現英語教育の問題点、理解を阻害する要因です(というか日本語英語への憤懣遣る方無い気持ち)。
原因が判明したとなれば、解決するにはそれを解消すればいい。
文法用語の問題は、原語を用いれば解決します。少なくともその根幹であるPresent form, Past formぐらいは原語表記して、新たな概念として学び直す。

幸い、英語の構造的概念は、おおまかな骨組みとして、視点の違い、空間的認知の違いが示されているから、それを足がかりに自分の周りを構成している世界を認識する手法の違いを常に意識し、探る。時の概念はPresent form, Past formをもとに探っていけばいいでしょうか。

いずれにしても、柔軟な状態に置かなければダメです。大人だからこそ日本語の言葉の概念、さらにはそれによって構築される世界認識に引っ張られてしまうからです。
そうして、英語が描く世界認識を0から正しく構築する。(2024年現在、ココはじめ、構築し始めています。読んで頂ければ幸甚です)

自分の理解にピッタリと合う、この構造的骨格を構築する為の説明書は日本にはないので(ここ100年間は無かったので、今後も私が生きている間に出ることは無いであろう)、自分で構築しなければなりません。しかも、一片のズレも無く極めて正確に構築する必要があります。高層ビルの建築に基礎が少しでもズレていると倒壊するのと同意だからです。
決して揺るがない構造的骨格がさえできれば、あとは付け足しの肉付けなので、既存の文法書でいいでしょう。

いったい、ネイティブの幼稚園小学生低学年はどのような事を頭に思い浮かべて概念を獲得していっているのでしょうか?

0から構築し新しい概念を獲得する。なかなか難しいことですが、知的好奇心をそそられる事でもあります。

ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!


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