
日本語英語の常識はまやかしだ!!! 「英語は単数、複数に厳格」は日本語の問題だった ー英語におけるモノの認知プロセス3ー
前回の「英語は複数が基本」の続きです。※以降、下線はリンクですのでクリックして頂ければ記事に飛びます。&ここでいう「日本語英語」とは、現学校教育で教えている英語(文法)を指しています。
今回は、前回とは逆の、「外観様態がハッキリしていない事」で、一体何が導かれるかを考え、そこから認知プロセスを明らかにし、更に種々の英語の疑問、矛盾点すべてを解決します。
最後まで読んで頂ければ全く新しい世界が見えると確信しています。
モノについて、よく考えてみると・・・
英語はモノを常にカテゴリー分類するので(「英語はモノに対して常にカテゴリー分類する」参照)、モノは、不定冠詞が付かない以下の四つの様に、外観様態がハッキリしない不定である事がモノの基本でベースなのではないでしょうか?
たとえば、下図左のappleは色々な形や形態がありますし、さらに右の丸々とした1コのappleは全宇宙で一個ではありません、認知的に常に複数あります。

パッと見た&意識した時の外観様態が基本だとすると、それが認知、表現の最初だということになり、英語はモノを表現する時、まず外観だけで、まだどう言うものかわからない影絵のような外観、外観様態から認知、表現すると言う事を意味します。
またこのことは、前回引用したマーク・ピーターセン氏著『日本人の英語』より
「食べた物として伝えたいものが、一つの形の決まった、単位性をもつ物ならば、 “I ate a...a...a hotdog!”(あるいはa sandwich, a rice ballなど)と、aを繰り返しつつ、思い出しながら名詞を探していくことになる」からも示唆されます。
このことを考えると・・・
以下のような認知表現プロセスがあるのではないか?と推察されます。

意識をする→外観がハッキリしているなら"a"→内容が明瞭になる→単位性のある集団なら"s"を付け足す"apples"と。
このようなプロセスで、モノを表すからこそ、日本語と違って、物質単体では表現しにくい、存在しにくいのではないでしょうか。英語において物質は風景の一部。それがモノの実態であり現実でのありようなのです。これを支持する考えは「冠詞は俯瞰認知するための因子」やこの記事一番最後の※を参照。
ネイティブが、モノを、それがある状況が判らないと想像できないのは、こういった認知表現プロセスをするからなのでは?
それでは逆に、日本語ではなぜ外観様態認知をしないのでしょうか?
それは
日本語は、言いたい事、結論、オチを最後に持っていく言語構造。
つまり、今から話す、その話の終わりの「あたり」をつけてから話す。極端に言えば、文章を完成させてから話す言語構造だからです。我々日本人はこれを反射的な無意識下で行うので認知できませんが、理屈から言って、結論を最後に持っていくためには、文構造はある程度完成していないと出来ないから、必然的にそう言う事になります(このあたりは濱田英人著『英文法の正体』の第7章からの私の勝手な解釈)。
「円の中心」を表すにしても、円という『終わり』を描いて、その中心を言い表す(英語は逆です。the center of a circle)。
このように、話す前にいったん文を完成させるという言語構造をしているから、日本語ではモノをしっかり確定しないと、表すモノがなんなのか判らないと、モノを文中に使えない、文が完成できないのです(だからに我々日本人は冠詞があるなしの「単体」の名詞が何なのか、「単体」の可算不可算名詞が示すものが何なのかを確定する事に極端にこだわるのです)。
このように、日本語は外観様態という概念は必要ないから、外観様態からの認知はしない、できないのです。
一方、英語はこの逆です。言いたい事を最初に持ってくる言語構造。
だから、いくらでも話を広げられる。言いたい事の「中心」を言えばその後、円を描いたり、その外側に三角、さらにその外側に四角だって表現できるのです。つまりは、頭に浮かぶまま、思いつくまま話すことができるという事です。
となると、英語は、日本語話者が考え言葉にする「一歩手前」の段階で話し出すことが可能、つまり、モノを確定せず話し出す事が可能だと言う事です。だから、モノを形、外観の段階で、外観様態のまま話始めることになり、話をしている最中にモノを確定させるという言語構造をしているのです(この事は英語のモノは日本語と違い「モノ単体」で確定しづらく文中で確定すると言う一因にも繋がる)。だからこそ、英語では外観様態が非常に重要になるのです。これは、先のマーク・ピーターセン氏の引用からも裏付けられます。
このように、外観様態認知をしているから"kakinotane"の数え方に、違いが出てくるのです(数えると言うことの概念認知の違い)。→ロス典子著「ネイティブの感覚で冠詞が使える」p11「英語のモノには認知の最小単位と言うものがある」の記事参考。
日本人はモノを確定しているから、千でも一万でも幾つであっても「数えられる」と言う認識。
英語は外観様態認知だから、それがはっきりしないと「数えられない」とする。
日本語(ネイティブ)が、単体のモノが何なのか?こだわるのはこう言うこと。
英語(ネイティブ)が、モノの外観様態をこだわるのはこう言うこと。
なのでは?
!
ん?
singular=単数
plural=複数
‥‥
外観様態がハッキリしているsingularは。
外観様態がハッキリしていないpluralは。
‥‥‥んん?
んっ!!?
いや、まてよ・・・
「ちょ、まてよ!」
英語は、「単数複数にこだわる、非常に厳格」だと言われています。
しかし、それは単複という、数にこだわっているのではなく、もしかして、『外観様態がハッキリしているか否か』にこだわっていたのでは??
リンゴのように単位性のあるモノを、外観様態がハッキリしている、していないかを区別する時にはsingular, pluralを使って、表現する事になりますよね?
英語に於いて「外観様態がどういうものか」、は英語の構造上その根幹です。
しかし、「単数」、「複数」という言葉は、数だけしか意味しません。それが重要だと言うのは、考えてみれば妙じゃないですか?しかも、1個とそれ以上って‥‥?いったい、どう言う理由で重要なのでしょうか。
現状、英語とは、単位性のあるモノに対して『数にこだわる』事になっています。が、それは、実は、数にこだわっているのではなく、外観様態にこだわっていたのだ!と言うことではないのでしょうか。
『単位性のあるモノは奇しくも数えられるから、外観様態がハッキリしているか否かを表現する時にsingular, pluralを使う』
だから数にこだわっているように見えるのだ!!と言うことであって!!!
前回の"名詞s"と"三単現のs"の関係についてのまとめ図にも、「数」は何処にもありません。

それじゃ、「英語が数に厳密だ」というのは、単数、複数という「数」の日本語の言葉を用いたから生じてしまったのでは?もしかして!
これじゃ、以前の記事で指摘したように、日本語英語がpresent, pastを現在形、過去形という「時間」を用い、世界を分けたために、完了形、仮定法という不要な矛盾の塊が生じたのと同じ病理、つまり、モノを数で分けたために、モノの認知に複雑性が生じたのでは。
そもそも、単数複数の概念がない日本語になぜ、「単数」、「複数」という言葉があるのでしょう?ひょっとして・・・これは日本語英語がつくった造語では??たとえ、元から日本語として言葉にあったとしても、単複という言葉は混乱を招く酷いトラップです。
繰り返します!
英語はsingular, pluralこだわる!と言うことの意味は
英語は『外観様態がハッキリしているか否か』にこだわる!ということであり、
なぜこだわるかは、モノを、外観様態から認知するからで、そうしないと表現できないから、こだわっているに他ならないのです!!数にこだわっていたのではなかったのです!!!モノを数で分けていたのではなくて、外観様態で分けていたにほかならないのです!!!!
1と0にこだわるのはわかります。有と無ですから。しかし、1とそれ以上にこだわり、分けるのは、わけがわからない、意味がない。
つまり、いままで学校教育で日本語英語の教えてきた、この、英語における『英語は数に厳格』という重大事項は、日本語英語が単数、複数という言葉を用いた事によって生じた、100%日本語側の重大事項だったということになってしまうのです!!!!なんと!!
英語は日本語と違い、モノを確定しないで話し出すから外観様態が重要なのであり、だから外観様態を表現するaやーsがあり、だからモノをカテゴリーするのであり、だからnounでラベル付と言うモノの表現の仕方をするのであり、だから冠詞で、立体的に俯瞰でモノを世界を認知するのです。
決して、一コとそれ以上が重要では無いのです。
おもしろい!!
日本語英語に対して常に疑問を持ち、否定すると別の世界が見えて、ホントおもしろいです!!!
さてと、話を戻します。
前述の、外観様態が不定でハッキリしない事が基本のベースだとすると、個体における「数」も、単数が基本ではなく複数が基本と言う事になります。
・・・と言う事は
モノに対しての「数」の認知は、従来の「単数が基本だから、その基本の単数が集まったのが複数である」という概念ではなくなり、『複数という基本のベースから一つを取り出したものが単数』という概念になります(→だから"a"は、カテゴライズした中の任意の一つという概念なのです)。
実際、研究社「新英和中辞典」第五版から「単数」の原語singularを引くと、「単数」という言葉の意味よりも前に、一番最初に『1.a 並外れた、稀に見る、非凡な, b 奇妙な、不思議な』と言う意味が示されています。
『基本形が外観様態のハッキリしないもの』なのに、それとは全く違った、ハッキリした単位性の外観だから、基本のベースから外れた『稀に見る、奇妙な』ものとしてsingularという言葉が当てられているのではないのでしょうか。
だから
一コではないのに、a few applesに"a"が使われるのは、外観様態がハッキリしているからということになり、矛盾がなくなります。数コならば、外観様態がまだハッキリしているからです。many applesだって、複数だからaがつかないのではなくて、a fewとは違い、もう数が多くて、外観様態がハッキリしていないから”a”がつかないのです(※a lot ofは口語だから法則から外れる)。
この考えも『aの真意は単数では無くて、外観様態がハッキリしているというサイン』では?という推論を裏付けます。
もう一度、話を戻します。
先の認知プロセスにすると、英語の不可解な現象のひとつである
『英語は物質を「物体」と「機能」に分ている』
という、ちょっと??な、つっかえるような認知も、スムーズになります。
英語は、"by car"や"go to school"での無冠詞名詞ように、物質を「物体」と「機能」に分ているとしていますが、本当にそうでしょうか?
本当に、会話時にそんな器用なことをしているのでしょうか?
日本人からすると信じ難いのですが・・・・
ネイティブの幼児や小学生がそんな複雑な芸当を瞬時に行なっているのでしょうか?
本当は
日本語と同じように『分てない』
のではないでしょうか?
と言うのは
今まで述べてきた概念や認知プロセスであると、モノは風景の一部であって、単体では存在しません。モノは風景の一部です(「冠詞は俯瞰認知するための因子」も参照くださいませ)。
そのような認知の中で、単体で存在できる場は、唯一、頭の中だけだと言えるからです。
頭の中だから、指すモノを風景の一部として描く必要がない。モノを詳細する必要が無い。だから、冠詞がないのです。
それが結果的に「機能」や「概念」になるだけのことであって。
日本語はモノを確定しないと話せませんが、英語はモノを確定していなくても話し出せる。
つまり、「機能」、「手段」、「概念」は風景の一部として存在していない、風景として表現しないから無冠詞なのでは?冠詞は風景の一部として存在させる因子です。だから、頭の中の事は結果的に「機能」、「手段」、「概念」になるという事です。英語において物質は風景の一部(→英語ではモノは風景の記事参考)。それがモノの現実でのありようだからです。物質を物体と機能で分けているからなのではなく。英語と日本語とのモノの認知、表現の仕方の違いが原因ということです。
このように考えると、日本語と同じく、物質を「物体」と「機能」に分けていない事になるので、非常にスッキリした理解になります。
日本語の「車で行った」、「通学する」は、物質を物体と機能に分けて考えれば、日本語でもその、英語のように捉えることができますよね。
このように、日本語で、後付の理由であえて「物体」と「機能」に分ける事が出来ると同じように、英語も後付けなのでは?
つまり、冠詞のない日本語で、冠詞の有り無しの理由付けために、日本語英語が物質を「物体」と「機能」に分けて説明したから、そうなったのではないのか?と言うことです。
でなければ、たとえば、新製品が出来たとしたら、その瞬間にネイティブ全員が、認識の齟齬なく、その新製品を「物質」と「機能」に分けた事になるからです。バスや学校のように既に全員に認知され辞書に載っているモノならともかく、新製品にそんな事はあり得ないのです。
・・・この理由だけでは不完全です。やはり、先の「冠詞は俯瞰認知するための因子」を是非読んで頂きたいです。それは、この無冠詞の理由を相互補完するからです。
以上で今シリーズ終わりですが、次の英語の疑問点矛盾点が解決し統一されました。
単複にこだわる理由(=日本語英語が「1とそれ以上」にこだわっていた理由)
名詞の"ーs"と動詞のsとの複雑な関係の解明
aがカテゴリー内の任意の一つという意味になる理由
複数だけでなく、概念や不定形物質に不定冠詞がつかない理由
a fewが複数個なのに"a"が使われる理由
定形物質でも不可算化する理由
英語の「数えられる」と日本語の「数えられる」の認知の違い
可算→不可算化したとき複数個あるのに"ーs"が付かない理由
nounの前に冠詞が来る理由&nounの後にsが来る理由
by carやgo to schoolのように明確な物質なのに機能や概念になると冠詞が付かずに用いられる理由
リンゴを切ったら不可算名詞になるのに、”a slice of”と数えられる"a"を使っている、また、数えられるのに「不可算名詞」と言う矛盾
イラストで一個のリンゴが無冠詞appleと示されているのに、口頭で”apple”が何か?とネイティブに聞くと困惑し、それでも無理やり示させると、リンゴ料理や、すりおろしたリンゴ、バラバラに切ったりんごを示すという不可逆性の理由
英語は俯瞰で世界をみる事
日本語に冠詞が無い理由
数を示すにはoneが有るのに”a”、「これだ」と特定するには”this”が有るのに”the”、という同じような意味を持つ、”a”と”the”が有る理由
モノを表現するときに、最初にわざわざ不定の"a"を用いて表現する理由
最初に"a"、つぎが"the"の理由
etc...
そのすべてが解決しました。
つまり
語弊を憚らずに言ってしまうと、日本語英語が、モノを『数』で分けたために以上の問題が発生してしまったという事です。
16の疑問の詳細は
なぜ、最初にモノを文中に出すとき(話題に上げるとき)に、わざわざ不定のモノを意味する”a”を用いて出すのか。日本語ネイティブの我々からすると、ずばり最初からソレが何なのか示せばいいのに、いちいち不定であることを表明する必要があるのか?という疑問です。日本語の場合、たとえ数を厳密にしたとしても、任意の不定で有ろうが無かろうが関係ないからです。
I saw a dog tied to a tractor. The animal was sleeping so cozily.
のように、最初に"a"を用いて、任意の一つ、不定の一つを出してから次に確定させるという(a→the)、まどろっこしい表現をするのか?という疑問。これも解決しました。
以前の「冠詞と名詞について」シリーズで、細分化されていた冠詞の意味用法がだいぶ統一化されたと思いますが、今回で残りの?意味用法や種々の疑問点、不可解な現象が、すべて解決し統一されました。
統合され一つになったと言うことは
言語におけるモノの認知の仕方および表現の仕方はひとつでありますから、それを示した事にならないでしょうか?
別々の細かく分かれていたものが、一つに繋がってしまったということは、一つの認知表現法によって生じる数々の現象を、項目分けして細かく分類分離してきたのが日本語英語の文法だったのでは?と言う疑念が浮かびます。
とは言え一方、grammarはネイティブための学問。
基本ネイティブは母国語しか知らない、言語における比較対象がありません。
だから、母国語の英語の認知表現方法を認知できない。
日本人が、日本語における、この世界の認知表現方法を言い表せない、表し難いのと同じです(日本語が結論を最後に持っていくという文法概念を認知できたのは、比較として、英語が最初に持っていくと言う言語があったからです)。
このように、grammar、文法は、それを意識できないほど知っていることを前提としている学問なので、結果的に、その認知表現方法における、結果や現象を細分化整理分類する学問になるから仕方がないのですが。
だからこそ、その国の文法とは、その言葉を母語としている人のためのものであって、決して、その言語を学ぼうとしている人たちのものではありません。
図書館に行って、分厚い日本語文法書を手に取ってみてください。とても外国人が、これで日本語を習得できるようになるとは思えません。
それなのに、日本語英語はgrammarを核としているから、英語を学ぶ学習者には(すくなくとも私には)よくわからないのです。
世界の記述を還元すると、「物質」と「動き」と「時」になりますが、現状日本語英語では、この『物質』と『動き』と『時』は、全て別々で、繋がりはまったくありません。さらに、それぞれは細かく細分化され、バラバラにされています。が、本来の言語としての概念は一つであるはず。という信念の元に、いままで統合を試みてきました。結果、やはり、非常にシンプルな概念になったのです。
それではさらに、前々シリーズ等で述べてきた『時』ーーすわなち「現在形」、「過去形」、「完了形」、「仮定法」を統合します。
前々シリーズとは、簡単に説明すると、以下のような現在形、過去形の再定義です。
舞台世界とは、英語の特徴である俯瞰認知した世界です(詳細は「現在形と過去形の意味」にて)。
ーーーーーー
present(現在形の原語)
話者に関係があり、影響し得る世界
past(過去形の原語)
話者に関係がなく、影響できない世界
ーーーーーー
それでは、統合します。

話者がいる
その舞台世界に有ればpresent(現在形)←その舞台にある描写
「無け」ればpast(過去形)←その舞台にない描写
その舞台世界に「無い」ことをその舞台世界に有ることへ持ってくるhaveするのが完了形
その舞台世界に有るモノや事(現象)で想定するのが直説法現在
その舞台世界に「無い」事で想定するのが直説法過去
それを話者の見解である助動詞を用いて
その舞台世界に有るだろう事(可能性高)で想定するのが直説法現在での助動詞
その舞台世界に「無い」だろう事(可能性低)で想定するのが仮定法での助動詞過去

※※完了形につきましては「完了形の用法という幻影」の記事を、仮定法では「仮定法の消失」の記事をご参考下さいませ。
この舞台世界を、今シリーズと、前回の「冠詞と名詞」シリーズとで、描写した、つまり、俯瞰認知した、と言うことです。
これで俯瞰で見た舞台世界に『時』が統合できました。
時といっても、時間のことは一言も出てこない。実は時は関係ありません。時で世界を分けていません。時で世界を分けているのは日本語英語です。
それじゃ、日本語は時間で世界を分けているか?
そんな事はありません。
つまり、時間で世界を分けているのは、日本語英語だけなのです。
時で世界を分つ事は、一見シンプルに思えますが、とても不自然な世界観なのです。
となると・・・
世界を『時』で分けたのは日本語英語。日本語英語で英語を学ばなければ、日本語英語のテストを受ける事がなければ、その世界観は不要で、それは混乱必至のトラップに等しい概念だ。という残酷な事実につながっていってしまうのです。
ズバリdisってしまえば、日本語英語が、現在形、過去形と時間で世界を分けた為に、『世界』が混乱し、さらに、単数、複数と、物を数で分けたが為に、世界の、物の概念が矛盾に満ちることになってしまったのです。なぜなら、世界を時で分けず、モノを数で分けなければ、あれほど複雑怪奇だったことがシンプルになったからです。
‥‥‥恐ろしい事を言ってしまうと
日本語英語は、言語の根幹の二つのことが、根本的に間違っていた‥‥‥
と言うことになりやしませんか?
まだ、残りのもう一つの要素『動き』について考察していませんが、おそらくバラバラに分解されている『動き』も、一つの『動き』の概念に統合でき、さらに同じようにすべて一つになると思います。
このように、統合シンプル化が可能だと信じているのは、それが、言語の命題である『誰でも使えて、誰でも理解できる』を満たすことになるからです。
※→もしも、「動き」についても英語の実態と違っていたとしたら、それこそ、日本語英語の学問は、日本語英語のテストのための学問であって、言語としての英語の学問では無かったという事になってしまいます。
如何だったでしょうか?またも、ちょっと強引過ぎましたでしょうか???
しかし、面白い考え方ではないかなと自分でも思っています。
まだまだ、荒削りですが、整理しこなれれば、シンプルなある種おもしろい言語習得モデル(ヨーロッパ言語の)になる気がします。
・・・なんて烏滸がましくもほざきましたが
英語を学ぶにあたって、一辺倒しかない現状に疑問を呈し、別の理解方法があるはずだと、考えてみたかったのです。
なぜなら、私には、現状の英語の学習方法では理解ができませんでしたから涙
だから、私自身理解しやすいように構築してみたのです。
私と同じ理解の仕方をする人ならば、私が費やした膨大な時間の無駄を省くことができるのでは?と確信しています。
※
『モノは単体で存在しづらく、モノは風景の一部として存在している』
この考えを支持する現象として
(some) apple, the waters
↑
コレ、ネイティブは単体ではどう言うものか容易には想像できない。
不思議なことに彼らは、これら物質名詞だけでは何か判らないのに、このsome apple, the watersを、普通に文中に使うのです。
さらに
このsome apple, the watersを、単体だけでネイティブに無理くり想像させると、それは、そのものが「何か」ではなく、そのものがある状況、風景を表現したのです。
前者ならロス典子著『ネイティブの感覚で冠詞が使える』p80の図125:サラダバーで野菜や果物が切ったものがそれぞれ分かれてボウルに盛られている状況での切ったリンゴが入ったボウル。後者なら、p92の図139:山脈それぞれに山頂あたりから小川が流れ、それが山脈の麓の大きな谷で一つの川となって流れているという状況。
このことは日本語話者にとって非常に不可解に思えます。
日本語は、物質名詞が何を指しているかが確定しているから言葉にできるのであって、どう言うモノか判らない、想像できないモノは、文に使えず、文構成成分になれないからです。
だからこそ、英語を学ぶ上で、我々日本人は、冠詞有り無しの名詞や、ーs、可算不可算のモノがどう言うものか非常にこだわり確定させようとする。
しかし、英語では、モノ単体だと想像できず、そのものがある状況を想像することから、モノに対して日本語のような認識をしていない。モノは風景の一部としてどう存在しているか、どういう状況にあるのかが判らないと、モノは確定しない。と言えるのではないのでしょうか(単位性のあるモノであっても単体のみでは存在しにくい→an appleは他にもあることを含意する=1コ単体ではない。それがテーブルの上であったり、スーパーで売っていたり、まな板に載ってこれから切ろうとしていたりと)。
だから、イラストでモノを説明するのに、apple, water, school, carなど無冠詞名詞で表され理解されているという現実があるのに、その単語のみだと何を指しているのか判らない、それどころか、無冠詞名詞を文中で使うとイラストや指でさしたものと違う意味になる(appleが先の不定形に切ったりんごとか、すりおろしたリンゴ、carは移動手段概念、schoolは学習する場という概念などに)という、日本人には、およそ不可解な現象が起こるのです。
前回よりもかなり長くなってしまったのに、最後まで読んでくれたこと感謝いたします。ありがとうございました。
おつかれさまでした!
ここまで読んでくれてありがとう。
あなたに幸あれ!!