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それは現実か ー冠詞と名詞について1ー
「冠詞と名詞について」の続きです。
※本記事の下線はリンクですのでクリックしていただければ詳細記事に飛びます。
英語は冠詞があったり単複厳密だったりと、日本語と随分違います。
至極単純に、違うと言うことは、英語と日本語では、モノに対する認知の仕方が違うということを意味します。モノに対する認知が違うと言うことは、noun≠名詞ということに繋がる事になります。※日本語英語ではnounは『名詞』と訳されている。マーク・ピーターセン著「日本人の英語」p29でも『英語の名詞と日本語の名詞が概念的に極めて不均衡な関係にあり』とあります。
ということは、理屈的に、モノに対する認知を日本語と同じにし、且つ、noun=名詞とすると、冠詞やnounに対する理解が不可能になる。と言うことです。
したがって、これらの違いを明確にするのと同時に、日本語の名詞と同一視せず、英語は、こういう認知をしているから、冠詞(限定詞)が必要で、単複厳密になるのだ。というプロセスが非常に大事だと思います。
日本語では
名詞は人の名前のように、名は、そのまま体を表す。日本語の名詞はすべて固有名詞のようなもの。※詳細は「名詞とnounの違い」にて。
名ーーーーーモノ
1対1で対応している。
且つ
話者の頭の中のモノ(概念)と実体、具体的なモノとを区別しない。
一方、英語では
英語はモノはすべて、最初は(未知のモノは)、固有名詞ですが、その後、そのモノがどう言うものかが判ると、それをカテゴライズする。※詳細は「英語はモノに対して常にカテゴリー分類する」にて。
どう言う事かと言うと、初めてリンゴ一個を見たときは、それが木の実であることも、切れることも、食べ物であることも判らない。
apple=🍎
で、つまりは固有名詞。
だから、冠詞やsはないし。その必要が無い。なぜなら、appleと言えば、全宇宙で🍎しかないから、固有名詞だから、区別したり単複表す必要が無いからです。
しかし、その後、🍎は、実は木の実で、同じ木から同形のモノが多数なり、かじれて、切れて、フレッシュで美味しい。ということが判ると、固有名詞から外れてカテゴライズされる(固有名詞に冠詞がつかないのはルールだからでは無くて、そのnounはその固有物だけしか指さないので、カテゴリー分類された中の一つというaが必要ないからなのです)
したがって、話者が言っているのは、どのリンゴを指し、どんな形(単元を言っているのか、切ったリンゴを言っているのか、それとも集合を言っているのか)をしているかが、必要となってくるのです。※単元とはモノの認知の最小単位。詳細は「英語のモノには最小単元(単位)と言うものがある」にて。
↑
単元の発生と、冠詞の必要性が生まれる
なぜなら、英語は俯瞰で世界を認知しているから、モノは、話者がいる周りの風景の一部だから、俯瞰で認知した映像の、どのリンゴを指しているのか(概念的にでも)、それとも、そこになくて話者の頭の中のリンゴか?が重要になってくるのです。※俯瞰認知のことについては「冠詞は俯瞰認知するための因子」と「英語ではモノは風景」をご参考下さい。
↑
頭の中と実体との分離が発生
日本語は、一人称視点で世界を認知している。
だから、目の前にあるモノは、目の前にあるものしか見え無い認知しないので、カテゴライズの意識は無く、英語のようにする必要が無い。
且つ
日本語は、独白言葉だから、頭の中と実体とを分ける必要も無いのです。
※冠詞(限定詞)やsは、具体化、実体化する役目もあります。
だから、英語とは異なり、日本語は、冠詞が不必要で単複を厳密にする必要が無くなるのです。
さて、ようやく本題です。
「それは現実か」
nounはラベルのようなもので、実体は無い。
詳細は「冠詞は俯瞰認知するための因子」、「英語の名詞はラベル」、「英語におけるモノの認知プロセス3」をご参考下さい。
肝心なことを、他記事に譲るなんて、ちょっとずるいですが💦ざっくり、簡単に言うと、日本語は、モノがどんなモノか想像できないモノを、文章や言葉に使うことができないのです。日本人にとって、モノが何かわかっているから、想像イメージできて、だからこそ、それを用いて文章、言葉にすることが出来るのです。
しかし、英語は、モノが何かはっきり分からなくても、話し出すことが可能で、その最中に確定するという言語構造をしている。それが確定していない=頭の中(by car, go to schoolなど)。確定させるということはこの世の中に存在させるという事だから、風景の一部として描くという事になるのです。だから、結果的に物質が「概念」と「物体」に別れるのです=「頭の中」と「現実に」とに。
The water in the Colorado river is clean.←実際
Water is clean.←イメージ、概念
There is a school at the foot of the mountain.←実体
I go to school with my sister.←機能
A bus is coming.←実体
I'll go by bus, not by taxi.←機能
He plays baseball.←機能
He plays piano.←機能※
He left office.←機能(退職した)
バスは乗り物であり、分割してしまったらその機能を果たさない。
話手も聞手も、bus, schoolが何かを知っている、単元が何か判っている前提です。
だから、無冠詞lobster、無冠詞turkeyのように、無冠詞で、バスや学校が料理にはならないし、その逆も真なり。つまりは、話し手も聞き手も共通認知として、最小単位を知っている事で、初めて成り立つのです。
これは、抽象名詞にも当てはまります。お手元の英語参考書の抽象名詞についての冠詞が有るモノと無いモノの比較を参考にしてみてください。
したがって
一律に『a名詞の場合は〜。無冠詞名詞の場合は〜』にはならない。
しかし、日本人は日本語は、一律な法則を探ろうとし、さらに、a名詞は、無冠詞は、ーsは何なのか確定することに極端にこだわる。
その理由は先の、日本語は、モノがどんなモノか想像できないモノを、文章や言葉に使うことができないからで、日本人にとって、モノが何かわかるから、想像イメージできて、だからこそ、それを用いて文章、言葉にすることが出来るという言語構造をしているからなのです。
いやいや、そんなことはない。
たしかに、久野暲/高見健一 著 「謎解きの英文法 冠詞と名詞」p1−6のように無冠詞で料理を示す場合があるでしょう。
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しかし、これは話者と聞手が、同じ場所にいて同じ物を見ている状況、話者がそれを指して言うから、判って=省略して、成り立つのです。無冠詞の食べ物名詞だけで、料理になるわけではないのです。英語においてモノは風景の一部なので、状況が無いとわからず、状況があって初めてモノがわかるのです。物質の認知を日本語と同じにすると、日本語英語の『名詞』、『冠詞』のように、いくら読んでもよく判らないという混乱の螺旋に嵌まります。
This is turkey.
This is lobster.
この文だけで、聞き手がターキーサンドかロブスター料理か判るとは思えません。ましてや、It's eel.で、ネイティブが、鰻の蒲焼きを想像出来るはずがありません。文脈も、状況も無く、その文(無冠詞名詞)だけなら、それらは、どんなモノか判らない漠然としたイメージでしょう。実際、"apple"だけでは、ネイティブは何のことはわからないそうです。ロス典子著「ネイティブの感覚で冠詞が使える」p11、p75。
このように「英語と日本語ではモノの認知の仕方、表し方が、まったく異なる」としないと、絵図鑑で、丸々としたリンゴの絵の下に"apple"という単体の単語、無冠詞名詞で示されているという事実があるのに、ネイティブは"apple"単体では何かわからない。強引に示させると、「すりおろしたリンゴ」とか「バラバラに切ったりんご」などと、イラストの一個のリンゴとは違う物を表す、という不可逆性の説明がつきません。
ただし!
This is a turkey.
This is a lobster.
It's an eel.
は別です。聞き手や読み手も、単元がどういうモノか判っているので、一羽の七面鳥。一尾のロブスター、一匹の鰻とわかる(話手と書き手が表現するモノが一致する)のです。
「名詞とnounの違い」に続きますーーー→
※デイビッド・セイン著「ネイティブはこう使う!マンガでわかる冠詞」p111によるとplay 無冠詞楽器名詞で違和感がないとのことです。
楽器を弾くときはthe guiterやthe pianoは、学校等での楽器演奏会という色々な楽器があるというカテゴリーの中だから特定のtheがあるのではないでしょうか。
ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!!