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仮定法は分類 ー仮定法のユウレイ2ー

「仮定法のユウレイ」の続きです。
※下線はリンクですので、記事中、クリックしていただければ、解説記事に飛びます。参考にしてみてください。

仮定法とは表題のとおり

仮定法はただの分類

なんだか、突拍子もなく、「何言ってんだこの人」と笑ってしまいますが、話として気楽にお読み頂き、結論までお付き合い頂ければ、幸甚です。
きっと、仮定法がスッキリ解決、雲散霧消するのではないかと思います。
わたしには暗い帷が上がり、さしこんだ金色の朝日で、世界がはっきり見えたように感じました。

本題に入る前に、頭の片隅にでも置いておいてもらいたいことが二つあります。それは、現在形、過去形を時間で分けるのではなく、以下の意味で分けてもらいたいのです。それと、「if」と「もし」の違いです。

現在形と過去形について
ーーーーーーーーーー
present form(現在形の原語)
話者に関係がある、関与できる世界

past form
(過去形の原語)
話者に関係がない、関与できない世界
ーーーーーーーーーー


”if”と「もし」について
ーーーーーーーーーー
英語の”if”は右と左、どちらを選んでも100%実現する単なる条件である「直説法if」と、実現不可能から妄想の「仮定法のif」の二つに分けている。

日本語の「もし」は両者を分けず、条件から実現不可能から妄想まで全てを含む。
ーーーーーーーーーー


この二つです。
現在形と過去形を、このようにする根拠は、古・中英語で独立した動詞変化として存在していた「仮定法」が、現代英語で時制のズレとして吸収消失、この事により、多義的になり、past formは時制の違いだけでなくなったからです。
単純過去形は、上記のように、完全に話者のいる今と切れて関与出来ませんが(だから現実不可も妄想も含まれる)、助動詞過去の場合は、助動詞とは、話者の、その事に対する見解なので、話者に関与できない『だろう』と言う話者の見解=可能性になり、話者の心的態度になるのです(助動詞は話者の見解だから続く動詞は話者の頭の中の動き概念で原形)。
※詳細は「過去形の多義性と三単現のsがある理由」もしくは「英語の原語構造におけるパラダイムシフト」を参考にしてみて下さい。リンク飛ばずとも、本記事最後に※※にまとめを記しました。


それでは本題です。

仮定法は分類


仮定法は機能ではなく分類とは?
いったい、どういうことか?そして、どうしてそうなるのか?を見ていきましょう(口語的になっているのは私の自問自答なのでご容赦くださいませ)。

河上道生著「英語参考書の誤りとその原因をつく」p432−441
本書は「仮定法過去がすべて現在の事実と反対の仮定を表すとの誤解がある」とし
日本の参考書や入試問題を取り上げ、ネイティブの文法書を根拠にして、それを指摘しています。
関正生著 真・英文法大全p167でも「仮定法は妄想・反事実・非現実なので、「ありえないこと」に使うのが基本ですが、中には「あり得そうな内容」も有ります」とあり、他の書籍でも同じように述べています。

つまり

仮定法は現実可能なことから現実不可能なことまでを含む

ということです。

そうなんです。
この事実から、仮定法は

現実可能なことと妄想と分けるものではない

と言う事が言えるのではないでしょうか?
実際、現実可能なことも含むわけですから
・・・となると・・・

これは・・・、これでは、仮定の取り扱いは、日本語と同じでしょう?分けてないのですから。(日本語の「もし」は、実現可能の条件から全くの空想をもすべて網羅し、分けていない)


??いったい、これはどういったことなんでしょうか??


不可解な混乱を解決するために
ちょっと、結果とそこから生じる問題を整理してみます。

現実可能、不可で直説法(中学校で習うif)と仮定法(高校で習うif)を分ける。
確かに、直説法は現実可能な条件で、仮定法は現実不可能な仮定であります。
しかし、その不可の仮定法ですら、現実可能から妄想の現実不可能まであるのですから、そもそも、分ける必要性がないのでは??

「文脈によってその意味が生じる?それじゃ、それこそ、日本語の「もし」と何ら変わらないじゃないか」

仮定法は現実可能不可で分けられていないなら、「仮定法」という文法用語さえなければ、ifの取り扱いは日本語の「もし」と同じことになってしまいます。

「それじゃ、いったい、なぜ分けてるんだ??」

突き詰めると
仮定法の文法的存在意義が無くなってしまう。
そう、英語のif文は、直説法と仮定法取っ払って、日本語の「もし文」と同じように一括りになってしまうのです。言い換えると、日本語に仮定法がないのは、日本語の「もし」が現実可能な条件から空想までも含むからですが、じゃあ、英語だって同じなんだから、直説法、仮定法と、わざわざ分ける必要は無いんじゃないか?と言う事です。


ここでちょっと、日本語英語の眼鏡を外して見てみて下さい。

直説法if過去と仮定法if過去

どこに違いがありますでしょうか?全く同じですよね(beは除く)
続く

助動詞過去文と仮定法帰結節の助動詞過去文

どこに違いがありますか?全く同じです。


とりあえず、仮定法&直説法の違いは現実性の有無で無い。と、いったん置いておきましょう。

「それではそれは、いったい、何処か、どこで見分けるんだ??」

と、視点を変えてみます。
すると、仮定法と直説法の違いは「時制の違い」一点に収束します。
ということは、大胆に言ってしまえば、仮定法が仮定法になるのは、仮定法の公式文だからではないと言うことになり得ます

一方、
日本語は、時制は自由に飛べますが、英語は、現在形で語る中で突然過去形は現れない、時制は突然ズレないと言う原則

「時制がズレても構わないじゃ無いか。訳す日本語は自由なんだから」

「いや違う!確かに、日本語は現在形で語る中で過去形が突然出てきても成立出来る」
しかし、仮定法過去をそのまま訳してしまうと、現在のことを言っているのに過去形になってしまい意味が違ってくるのです。

「ということはつまり、仮定法という言葉は、時制の矛盾を指摘する、意識するためだけに存在する『認知』と言うことに成りやしないか?現実可能、不可で分ける『機能』で存在しているのではなく
実際、現実可能な仮定法もあるわけですから。


「いや違う!確かに、仮定法はネイティブ文法にある」
しかし、それは英語が「あなたの頭の中の話か?」それとも「実際に起きている現実の話か?」と、自分に影響あるなしを重要視している言語だから、そのように分けて区別しているのでは?文法的な機能ではなく。
言い換えると、仮定法があるから、その仮定法の機能によって、そのような文法的な意味になるのではなく、結果的に、ただ単に、文法的な意味現象をそう分類しているだけなのでは?
そう、完了形と同じように、原因と結果の関係ではない!のではないでしょうか。

ーーーーーーーーーーー
もう一度繰り返します。
直説法if過去と仮定法if過去
どこに違いがありますでしょうか?全く同じです。
続く
助動詞過去文と仮定法過去帰結節文
どこに違いがありますか?全く同じです。
ーーーーーーーーーーー

となると、ひょっとして・・・(以下の強い疑義が私にはあります)
present, past formは、日本語の「現在」と「過去」と同一ではないのに、日本語英語が「現在形」、「過去形」と訳し、時間の差しか意味しない日本語文法の「現在形」、「過去形」と同一視してしまったがために、past formで表現する仮定法過去を現在の意味に訳すという大矛盾が生じてしまい、だから、日本人は、日本語英語は、仮定法という、ネイティブ文法で消えてしまった(動詞変化として無くなったという意味で)文法用語を、引っ張り出したのでは??
※本当に、これが「真」であることが「仮定法のユウレイ5」で判明します。

それは言いすぎだ!

としたら、仮定法を重要視した、と言っても良いでしょう。そうやって、ただの分類を、機能にして、辻褄を合わせたのではあるまいか?(語弊がある言い方ですが、日本語英語を勉強すればするほど、わけが判らなくなる私のdisりです汗スイマセン)。
「‥‥‥やはり、そうなんではないでしょうか。だって、仮定法を機能するだけの単語や動詞変化は無いじゃありませんか(そういえば完了形だって、完了形を機能するだけの単語や動詞変化はありません)」

つまり
「仮定法の問題は、日本語英語だけに存在する、日本語英語に踊らされていた一人芝居だったということになりやしないか?」
と言うことです。
もしそうだとするならば、仮定法の困難さは、現実には存在しなかったユウレイだったということになり、言い換えると、日本語英語が時間を絶対軸にしてしまったために、生じてしまった。という、恐ろしい結論に行き着いてしまうのです。
※本当に、これが「真」であることが「仮定法のユウレイ4」で判明します。

結論
仮定法には、機能はなく、ただの分類だった。


だから、完了形の用法が文脈によってコロコロ変わって一定しないのと同じように、仮定法の実現可能性の度合いも、一定していない。機能ではなく、表現の分類だから。
そもそも、『機能が一定しないのなら、機能としての用を成さない』でしょう。

くどいですが、仮定法過去に過去形を使うのは、時間的な理由ではなくて、話者がそのことについて、影響しない関係しない(実現しなかったら結果的に関与出来ない)と思っているから。
思っているからこそ、それが時間が経過し現実になってしまう場合も有るのです(その結果、仮定法過去という表現は、現実可能から不可能までの幅が有る)。
つまりは、結果であって機能では無い。そこには、原因と結果の関係は無いのです。


ちょっと、発想が飛躍しすぎましたでしょうか?
たまには、こういう、振り切った見解もいいじゃありませんか笑
生物学や物理学、歴史だって私の学んだときと教科書が違っているのですから、英語だって100年前と同じではなく、色々な考えがあって、いいでしょう


※※仮定法は現代英語で吸収された。
もともと中、古英語で仮定法として別にあったもの(変化)が無くなって、無くなった現代英語でその仮定法を表現するのに、助動詞過去と完了形を使う(正確には時制のズレを使う)。
ということは・・・そのことによって、どんなことが起きるでしょうか?それは、助動詞過去と過去完了に、その分意味が増えると言うことです。そうです、だから、この時の増えた分の助動詞過去と完了形は、本来の意味とは違う事になるのです。厄介な事に、と言うか当たり前ですが、形は全く同じで区別はつきません。つかないからこそ、われわれ日本人学習者には混乱の極みになるのです(しかし、先述した様に出る場所が違うのでわかります)。現日本語英語は、これを、過去形になると意味を増やさせる事によって、あくまで同一視しています。もともと、別物なのに、同一視するから日本人英語学習者は混乱し理解しがたくなるのです。しかも、前後の文脈の時制のズレでそれを表現するのに、一文だけを取り出して意味をわからせようとしているのです。そう、はっきり言わせてもらえば、ワナが、ひとつ、ふたつと仕掛けられているのです。
本記事の続きは、3ではなく「仮定法のユウレイ4」になります。

P.S
過去の自分の仮定法の記事を読み返したら、気張りすぎて空回りしていて、書いた自分でさえも??という、よくわからない箇所が・・・笑。
そこで、その思考を辿るために、その時、読んでいた参考書を読み返してみると、全く別の、面白い見解が生まれ、今回整理して、再アップしました。
外山滋比古著「思考の整理学」で示されているように、「思考を寝かせて醗酵させる」ということは、本当に大切なんだ、と痛感ました。

ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!!


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