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「何であるか」を知ることと「どのように知るか」を知ること 〜 組織マネジメントと2つの暗黙知

グロービスで今年から「マネジメントに役立てるリベラルアーツ」というクラスを開講しました。哲学や歴史、文学に音楽、認知心理学に文化人類学に社会学といった、いわゆる大学の「教養科目」をマネジメントにどう活かしていくのかを考える全4回構成のクラスです。

1月はじまり、7月はじまりの2期がすでに終了、現在は10月期のクラスが進行している状況ですが、このタイミングでこれまでに印象に残ったことばや出来事を振りかえっておこうと思います。

1月期のクラスの受講者にはガチリベ(私の勝手な造語。意味は「ガチでリベラルアーツを学んだ人」)の方がいて、クラスで「歴史学ってこういう学問なんです」という(歴史学は専門外の)私の説明に強烈なダメ出しがくるかと思いきや、まったく予想しない方向からのポジティブなコメントが返ってきて驚きました。

そのコメントについて考えていくうちに、このことはマネジメントにおける暗黙知について私たちの認識を広げてくれる話なのでは? と思うようになりました。

歴史は暗記科目なのか?

「リベラルアーツ」クラスでは、歴史学をこんな風に説明します。

歴史学は、いつ・誰が・何をした、何年にどんなことが起きた(どんな制度がつくられた)といった事実をひたすら暗記する学問」である。そんな風に思われがちだけど、じつはそんなことはない。

客観的な事実は踏まえるものの、歴史学の焦点はその先にある。そうした状況のなかで歴史上の有名人(だったり、名もないフツーの人だったり)が、何に目をむけ、どう感じ、考え、その結果、どのように行動したのかを考えるのが歴史学の眼目なのだ。

たとえば、1868年の1月に徳川慶喜が大阪城から逃げ出した、という事実をおぼえることではなく、そのとき徳川慶喜が何を考えどのような見通しのもとに逃亡したのか? そして、その後の展開をその時点でどうとらえていたのか? みたいなことを考えるのが大事なのだ、という話です。

だから大事なのは「客観的」現実がどうかではなく、その「客観的」現実を、誰が・何を根拠に・どのようにとらえ、その結果、どのように行動を起こす(あるいは行動しない)ことで、それにつづく「客観的」現実がつくられてきたのかという、「客観的」現実と「主観的」現実のつながりからどのように「歴史的」現実が生み出されているかを考えることなんですね。

歴史学の方法論を仕事に役立てる?

と、エラそうに説明している目の前に、がっつりリベラルアーツを学んだ人が座っているのは非常にまずい。ものすごくやりにくいし、後で「そりゃ認識がちがうぞ」みたいなダメ出しがくるでは? と心配になる。

ところが、その方から返ってきたコメントはまったく予想していないものでした。

そう言われてみると、たしかに自分は仕事のなかでもそのように考えているし、これがビジネスやマネジメントにも役立っている側面があることに気がついた!

まずは想定外の反応に驚き、ポジティブなコメントに喜んだ後、「これってつまり、この人にとっては、歴史学的な方法論が仕事に取り組むうえでの暗黙知として働いていた、ということなのだな」と考えるようになりました。

が、このエピソードに語られている暗黙知は、一般的に考えられている暗黙知とは大きく性格が異なっているように思える。では、その違いとは何なのか?

2つの暗黙知

マイケル・ポランニーは「暗黙知の次元」の中で、暗黙知をつぎのようなたとえ話で説明しています。

我々はある人の顔を知っている。我々はその顔を千、あるいは一万もの顔と区別して認識することができる。しかし、それにもかかわらず、我々が知っているその顔をどのようにして認知するのかを、ふつう我々は語ることはできないのである。

認識はできるが、どのように認識しているのかは分かっていないタイプの知識、それが暗黙知。そして、イギリスの哲学者、ギルバート・ライルのことばを引用して、これを「何であるかを知る(knowing what)」ことはできても、「いかにして知る(knowing how)」のかについては語ることができない種類の知識だと語っています。

その結果、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」が、そのプロセスを細かく説明することはできない、という状況が生まれる。

一般的に考えられている暗黙知は、このようなものです。

巧みのワザの職人は長年の経験と勘から「これだ!」「ここだ!」「いまだ!」みたいな判断を下せる。しかし、何を根拠にそのような判断を下したのかを問われても、はっきりと答えることができない。そうした類いの知識です。

そうした意味での暗黙知とくらべて、「リベラルアーツ」クラスのコメントに語られている知識は大きく異なっています。つまり、「いかにして知る」かが分かっていないだけではなく、「何であるかを知る」ことを行っていることにも気づいていないタイプの暗黙知なのです。

「知る」という行動をしていることは分かっているが、そのプロセスについて分かっていないというポランニーの暗黙知に対して、ここで考えているタイプの暗黙知を、「知る」という行動をとっていることにも気づいていないという意味で、「暗黙の行動知」と呼ぶことにしましょう。

では、「暗黙の行動知」とは、どのような性格の知識なのか?

「暗黙の行動知」とは?

こうしたタイプの知識、じつはそれほど特殊なものではありません。というか、むしろよく耳にすることがあります。

たとえば、「新卒一括採用では、まっさらな状態で人を雇うことができるところがよい」という意見は、暗黙の行動知を身につけてもらえるメリットがあるよ、ということを述べています。

つまり、まだ仕事そのものをまったく知らない状態からはじめることで、自分がどのような状況で・どこに目を向け・何を基準に判断しているのかだけでなく、どのような判断を下しているのかについても意識することなく、組織のやり方に「染まる」(暗黙の行動知を身につけ、指示・命令しなっくても他のメンバーと同じように考え、行動するようになる)形で仕事をおぼえてもらうことが可能になるわけです。

そうなれば、組織行動の方向性をバシッと揃えることができるというメリットが生まれる反面で、これまでの行動を大きく変えようとすると、メリットをそのまま裏返したデメリットが生じます。

組織メンバーの行動を変えようと、「今後はこのような枠組み・基準で判断し行動してください」みたいなことをどれだけ伝えたとしても、行動していることに無自覚な行動は変えることができない。

その結果、「アタマでは行動を変えているつもりでいても、じっさいのメンバーの行動には何の変化もない」なんて状況が生まれることもあります。

そのように考えると、いわゆる「暗黙知」と、ここで考える「暗黙の行動知」は、組織のマネジメントに役立てるうえで大きな違いがあるといえるでしょう。

暗黙の知識を明確化するには?

暗黙知を組織のマネジメントに役立てようという場合、たとえば職人の匠の技を定量化数量化し、「見える化」することにより、経験が少なくても高いスキルを持ったメンバーのように行動してもらうことが可能になる、という形の取り組みが行われます。

しかし、環境変化に対応する形で、ここで考えている暗黙の行動知を明確化し、変化させようとしても一筋縄ではいきません。なにしろ本人ですら気づいていない意識や行動に的をしぼる必要があるので、すぐさま定量化・数量化・「見える化」を行うことができないんですね。

では、この場合には何が必要になのか?

ここで大事なのは、歴史学の暗記項目のようなマネジメントにおけるコンテンツではなく、組織において誰が・何を根拠に・どのようにとらえ、その結果、どのように行動を起こす(あるいは行動しない)ことで、どのような組織的状況が生まれているのかというプロセスに目を向けること。

こうした点で、「リベラルアーツ」クラスの受講者からの意外なコメントは、この点に関するヒントを与えてくれるように思うんですね。

「組織的」現実が生まれるプロセスに目を向ける

マネジメントの理論やコンセプトでは、「『客観的』現実と『主観的』現実のつながりからどのように『組織的』現実が生み出されているか」といった視点から、組織の状況や問題をとらえることはほとんどありません。

しかし、組織のメンバーが共有する暗黙の行動知を明らかにしようとすれば、考えの枠組みやプロセスがまったく異なる視点からマネジメントをとらえる必要があります。そうしたときに、ビジネスやマネジメントとは何の関係もないと思われているリベラルアーツの考え方のプロセスに目を向けることで、それまでまったく自覚していなかった暗黙の行動知の輪郭を浮かび上がらせることができるのではないかと思います。

とはいえ、このガチリベの方からのコメントに関しては、まだ大きなナゾが残っています。

それは、「これまでの仕事への取り組みのなかで、『あ、これは歴史学で学んだことと同じだぞ!』という気づきが生まれなかったのはなぜなのか?」ということ。

すでにだいぶ長くなってしまったので、この点については、また別の機会に。

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