「AかBか」問題の正解は「AもBも」だったりする 〜 マッツ・ミケルセンの演技論がビジネス・マネジメントについて教えてくれること
ちょっと前に読んだインタビュー記事が面白かった。
「ファンタビ」を降板したジョニー・デップに替わってグリンデバルドを演じたデンマーク出身の俳優、マッツ・ミケルセン。
どの映画でも独自の存在感を放つこの俳優が、「カメラが回ってない時も常に役のままになりきる」演技手法に強烈なダメ出しをしている。
面白かったのは、演技法そのものの良し悪しとは別に、こうした手法なりツールなりをありがたがるメディアにも批判の矛先が向けられていること。
手法やツールは最終的な成果にたどりつくための近道にはなっても、成果そのものを生み出すものではないし、使う手法やツールが何であれ、望んだ状態を生み出すためには、それ以外に何が必要なのかを考えることが大事。
しかしメディアや批評家の声は、手法そのものに成果をもたらす力が宿っているような幻想を生み出すことがあるから、そうした声に惑わされてはいけない。
たぶんそういうことを言っているように感じた。
そんな風に考えてみると、演技についてここに語られていることは、ビジネスやマネジメントとも大いに関係しているように思えてくる。
メソッド演技法とは?
ここでミケルセンがダメ出ししている「なりきり演技法」は、もともとロシア・モスクワ芸術座の演出家、コンスタンティン・スタニスラフスキーが提唱したもの。
1940年代末に設立されたニューヨークのグループ・シアターが、この手法を俳優のトレーニング方法として取り入れ、「メソッド演技法」(「スタニスラフスキー・メソッド」)として体系化し、後のアクターズ・スタジオの土台となった。
(この記事には、「レディー・ガガ、ジャレッド・レト、ダニエル・デイ・ルイスなどが愛用している」演技法だと書かれているけど、大昔だとジェームズ・ディーンにマーロン・ブランド、それからジーン・ハックマン、ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロを経て、ショーン・ペン、ジュリア・ロバーツ、ケヴィン・スペイシーにいたるまで、とにかく数え切れないほどの名優たちが愛用する、アメリカを代表する演技法のようなものだ。)
メソッド演技法は、カラダで表現する型を覚えるのではなく、ココロの内面に生まれる感情を重視する。俳優が自分自身の経験を振りかえり、そこに生まれた感情や無意識の働きをしっかり自分でコントロールできるようにすることで、俳優が「役を生き」、紋切り型ではない自然な演技を生み出すことが目的だ。
「自然な演技」は何でできている?
この「メソッド演技法」、具体的にはどんなことをやるのか?
それについては、糸井重里との対談で俳優の宇梶剛が語っていることが参考になる。
自分自身の経験や記憶をたどっていって、そこでココロの内面に生まれた感情を感じ取り、意識的に再現し、組み合わせ、組み替えることができるようにする訓練。
それがメソッド。
そういう役づくりをすることで、かぎりなく「自然な」、ということは「ありもしない自分」を探すのではなく、役者自身のナマの感情に支えられた演技が可能になる。
「なりきり演技法」をバッサリ
で、マッツ・ミケルセンは、このメソッド演技法を「くだらない」とバッサリ斬る。
「その映画が駄作だったらどうするのかな?」はちょっと意味が分かりにくいけど、どれだけ入念に役づくりを行ったとしても、結果的に映画が駄作になってしまうような演技だったら、その役づくりには意味はないだろう、ということ。
映画の感動は、最終的に演技で表現されたものから生まれてくるものなので、カメラが回っていないときも役になりきっていたかどうかは関係ない。
だから、「(そんな役づくりなら)最初からやらない方がいい」と語っている。
面白いのは、こうした風潮はメディアや評論家によってつくり上げられた側面があるとミケルセンが語っていること。
演技法が話題になり、広まり、あたかもその手法が感動を生み出すもののように受け止められるようになる背景について、もともとのインタビュー記事を書いた記者は、「見栄を切ることと芸を磨くことが混同されているから(conflating stunts with skill)」と書いている。
手法やツールを使って「見栄を切る」ことは、かならずしも最終的な成果を生み出すとはかぎらない。なぜなら、最終的な成果は、手法やツールとは別のところにある「芸を磨く」ことから生まれてくるから。
メソッド演技法は、「型にはまらない」「自然な演技」をめざしていたはずなのに、「ココロの内面に生まれる感情」を再現するための「型」そのものから最終的な成果が生まれるかのような幻想がつくり出されているということだ。
「見栄を切る」ことと「芸を磨く」ことはどう違う?
メソッド演技法に向けられたミケルセンのダメ出し。これは、日本人にとってはとても受け入れやすいものだと思う。
なぜなら、私たちはふだんから、「カラダで表現する型」を覚えるスタイルの演技法で育った歌舞伎役者の千変万化する演技に触れているから。歌舞伎役者の巧みな演技は、しっかり「型」を踏まえたうえで、「自然」で「迫真に満ちた」演技になっている。
だから、「紋切り型」の演技の問題は、「体で表現する型」を覚えるという手法なりツールに原因があるのではなく、最終的な演技が、覚えた「型」のままにとどまっていることにあるはずだ。
問題は「カラダで表現するか? ココロで表現するか?」ではなく、「カラダでもココロでも表現できるためには何が必要なのか?」ということ。「AかBか」ではなく、「AもBも」を実現するための条件を考えることが大事になる。
最終的な成果を生み出すものは、手法やツールとしての見栄の切り方ではなく、手法やツールだけでは生み出せない要素をどのように補っていくのかだ。それが「芸を磨く」ということだ。
「AもBも」を生み出す条件とは?
堺雅人が語る、「半沢直樹」での市川猿之助の演技は、まさにそうした「AもBも」の条件が何なのかを教えてくれる。
「型」から入っても「型」で終わるのではなく、そこに「心も動かせる」力をつけること。それが「芸を磨く」ということだと思う。
「AもBも」といっても、AとBを同時に実現するのではなく、「Aから入ってBにいたる」あるいは「Bから入ってAにいたる」という連続するプロセスの後半部分(手法やツールだけでは生み出せない部分)をどうやって生み出すかを考え、実践することが大事だということになる。
熟達の2つのプロセス
「Aから入ってBにいたる」という熟達プロセスの感覚は、たとえば「守破離」という言葉で語られることがある。この言葉、「破」については何となく分かるような気がするけど、「離」ということが具体的にどういうことなのかが分かりにくい。
そこいらの事情を、認知科学的に説明すると、こういうことになるんだと思う。
演技にかぎらず、何事であれ、熟達するためには、最初はできなかったことができるようにならないといけない。でも、そのレベルにとどまっているわけにはいかなくて、そこから先の高みに近づく努力が必要になる。
ここで大事なことは、最初はできなかったことが簡単にできるようになるための手法やツールはたくさんあるが、そこから先にたどり着くためには、そうそう簡単な道具は用意されていないということ。
熟達の第2のレベルを実現するためには、手法やツールのような型に単純化できない複雑な判断を、瞬間的にココロで行うと同時にカラダを動かすことができなくてはならないから。
「5合目まではバスでいける」とか「3合目まではロープウェーでいける」としても、そこから先は重い荷物を自分で背負って、薄い空気の中を自分の足で一歩一歩あるいていかないと山頂にはたどり着けないようなものだ。
入念な役づくりで知られるマッツ・ミケルセンの「メソッド演技法」批判は、役づくりという準備作業のステップそのものが大事なのではなく、そうした作業を踏み台として、さらにその先にたどり着くための取り組みが大事だということを語っているように思う。
「型」から入る場合は、そこに「心」を伴うようにすることが大事になるし、「心」から入る場合は、それが「型」となってあらわれるようにすることが大切。どちらの場合でも、後半部分を実現するための便利な手法はツールは存在しないので、つねに試行錯誤を怠ってはいけないし、前半部分の手法やツールを過大に評価するメディアや批評家にまどわされてはいけない。
そんなことを言っているように思えた。
「AもBも」の道筋を自分の足を使って探す
この手の話はビジネスやマネジメントの分野でもよく耳にする。
「ホメることが大事」vs「シカることが大事」の議論が数年おきに繰り返されたり、「手法が大事」vs「心構えが大事」の土台のうえで異なる手法のメリット・デメリットが比べられたり。
ある手法やツールが大ブームになると、数年後にその手法やツールの「限界」や「課題」が語られるようになり、そのあたりの状況を解決するための新たな方法が話題になり、広まり、無条件で賞賛されたその後に、やっぱり「限界」や「課題」を指摘する声があがる、というパターンもある。
以前の記事の中で、新しい言葉が「新しいもの幻想」を生み出すことがあると書いたことがあるけど、これと同様に、新しい言葉で語られる手法やツール自体が最終的な成果を生み出すような幻想がつくられることがある。
俳優が、メソッド演技法そのものを賞賛するメディアの論調に惑わされてはいけないように、ビジネスパーソンも、つねに生まれては消えていく「AかBか」問題(最終的に成果を生み出すのは、手法A・Bのどちらなのかを前提とした議論)に惑わされることなく、「大事なのはAもBも」を実現する条件を探すことが大切だということを自覚し、「Aから入ってBにいたる」あるいは「Bから入ってAにたどり着く」ための(便利な近道が存在しない)道筋を、自分の足を使って探していくことが、これからますます重要になってくると思う。