「平成33年のオリンピック」としての東京五輪
東京五輪の閉幕から1週間。まったく違った視点から、今回のオリンピックの意味と意義を振りかえる2つの記事に目がとまった。
10人の高校生・大学生による座談会で語られる東京五輪。
将来、子どもや孫に「こんな五輪だったよ」と伝えるとすれば、どんな言葉で表現するのか? という問いへの答えが面白い。
SNSを追いかけ、選手の素顔や裏舞台も含めた形で五輪を楽しむ、というところが、いまの時代なんだなあと思う(自分は、編み物をしていたトーマス・デーリー選手が、完成したカーディガンを披露するトーマス・デーリー選手のYouTube動画しか見なかったから)。
そして、オリンピックに参加する選手は「SNS業務」もやらないといけないんだから大変だよな、なんてことも思ったり。
この他にも、IOCの「ご機嫌取りオリンピック」に「商業主義オリンピック」。「ダメになっていっている様子」を強く感じたとか、「この五輪をきっかけに色々な膿が全部出て、ここから日本の政治が変わっていった」きっかけになればいい、なんていう刺激的な言葉もある。
もう1つ面白いなと思ったのは、「開会式・閉会式ではこんなメッセージを伝えようとしていたのかもしれないけど、それが感じられなかった」みたいな意見がなかったこと。
そのあたりの事情については、東京大大学院の吉見俊哉教授が語る東京五輪の「2つの限界」が参考になる。
この結果、「開会式は凡庸な「日本らしさ」のパッチワーク」となった。その背景には、「日本が高度経済成長期からの社会の仕組みを変えられず、その中でしかものを考えられない」という「日本の根本的な限界」がある。
「成長主義的な価値観で社会を変えていく時代はもう終わって」いる。
だから、「64年の成功神話を再現しようとするのではなく、64年は何が間違っていたのかを検証」する形で、「成長型ではなくリサイクル型の社会。そういう社会をどう実現するか、という問いから出発し、そのための五輪を考えていれば」、「64年型五輪の神話の限界」と「グローバリズムと一体化した84年型五輪の限界」を乗り越えられたはず。
ここに語られている2つの限界。じつはこれまでもず〜っと語られてきたことだ。
吉見俊哉は、平成という時代についてこんなことを言っている。
それは、「一時は永続するかと思われていた「戦後日本的なもの」があっけなく崩れ、失われていった」時代であって、「すでにあったものの喪失」として経験された。
もちろん、激しい環境変化という構造条件が、そうした状況を生み出す大きな要因になっている。けれども、もっとも重要なのは、そこに向き合う姿勢だと語る。
「構造条件を自ら乗り越えていくことのできなかった歴史」としての「平成」。
これを小熊英二は、こんな風に表現している。
こうしたことは、政策だけにかぎったことではなく、「時代錯誤なジェンダー規範とその結果としての晩婚化・少子化もまた、「先延ばし」の一例」だと語っている。
そんな視点からながめると、吉見俊哉が語る開幕以前からの東京五輪の問題点やスキャンダルは、構造条件を自ら乗り越えていくことができず、問題の「先延ばし」に終始してきた「平成」の時代の延長線上にあることがわかる。
だから、東京五輪は、「平成33年のオリンピック」なんだと思う。
小熊英二は、「平成史」の冒頭に置かれた「総説 「先延ばし」と「漏れ落ちた人びと」」をこんな文章で結んでいる。
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