いまさらだけど、ホンネとタテマエについて考えてみた。あと、五輪開催とコロナ対策、そして経済ナショナリズムについても
いまさらだけど、オモテとウラ、ホンネとタテマエの使い分けについて考えてみた。
きっかけは、「『西村大臣炎上も同じ構造』 日本政府が"お願いベース"の政策を続けるワケ」という面白い記事。
西村経済再生相が発表した「金融機関への《働きかけ》」は、「実質的な経済活動の自由に踏み込みつつも『お願いベース』を装うことでそうした言質を取られることを回避するというスキーム」だったが、これに対して「けしからん! 辞めてしまえ!」と憤るだけでは何も変わらない、という話。
なぜかというと、「けしからん! 辞めてしまえ!」という国民の「感情優先主義」こそが、西村発言にみられるような、「自分たちの究極的な責任は回避できる脱法的スキーム」「自分たちに責任があるような言質を絶対に取らせない徹底したエクスキューズ」を生み出しているから。
個人的に、この西村発言がとくに面白いと感じたのは、自民党支持者からも批判の声が上がったこと。
本件について、自民党に批判的だった人びとは「一線を越えている」と激怒していたばかりか、平時には自民党支持側に立っていた人ですら「それはまずいだろう」「これはいくらなんでもダメだろう」といった驚きや反発が多数あがっていて、右も左もほぼ全会一致して否定的であったという珍しい事案となった。
記事に書かれているように、西村発言は、「実質的な規制でありながら、しかしいちおうの建前として『要請』と銘打つことによって、法的・行政的・政治的なアカウンタビリティとリスクを回避するという神業的なプラン」だったけど、これがみごとに逆噴射したことになる。
自民党に批判的な人からの声は織り込み済みだったろうから、この失敗の要因は、自民党支持者がいう「それはまずいだろう」「これはいくらなんでもダメだろう」の、「まずさ」や「ダメ」の基準を見誤ったことにあるはず。
だとすれば、失敗の要因は、「いちおうの建前として『要請』と銘打つ」ことをねらったものの、それは自民党支持者にとっても、タテマエがタテマエとして成立しているようにはとうてい感じられなかったから、ということになる。
オモテとウラ、ホンネとタテマエの使い分けについては、日本の文化を特徴づける感情や行動パターンとして、うんと昔からいろんな人が取り上げてきたことだけど、今回の西村発言の大炎上は、使い分けようとするタテマエをタテマエとして成立させる条件は何なのか? についてのヒントを与えてくれるような気がする。
じっさいに、西村発言の内容をニュースで知ったときに、思わず心の中でつぶやたのは、「えっ、それ大臣が公の場で言っちゃいかんだろう!」だった。
「お願いベース(要請)」というタテマエがタテマエとして成立するためには、要請にかなった行動を実現させるための根回しや段取りはいっさい行っていませんよ、という「タテマエ」が必要。
公の場では、そうした働きかけの有無についてはトップの人間がきっぱりと否定する。しかし現場では、担当者が「それとなく」伝え、相手が忖度にもとづいた行動を取るよう「要請」する。そういうことが必要なはず。
なのに、なんで西村大臣は意気揚々とそうした働きかけの意図を語るんだろう? これはありえないぞ! と思った。
だから、自民党支持者にとっては、タテマエがタテマエとして成立していないように感じられない、というよりも、どうして「言わない約束」を堂々と口にするんだ(怒)! という感覚なのだろう。
ふだんならば、「トップは否定するが、現場では時間をかけて『コンセンサス』を醸成する」みたいなやり方をすべきだったが、一刻も早く感染拡大をくい止めなければならない状況だったので、あえて大臣が記者会見で高らかに宣言した。
みたいなことも考えられなくもないけど、1年前の2020年5月の新聞記事を思いおこすと、その理由は、単に西村大臣が「しゃべりすぎ」なせいなのかもしれない。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、西村康稔経済再生担当相(57)が、自民党細田派内で「ポスト安倍」候補の一人として数えられ始めた。
緊急事態宣言を含む改正新型インフルエンザ等対策特別措置法を担当し、政府の新型コロナ対応の「顔」として連日国会や記者会見で発信しているためだ。
一方で宣言解除を巡って踏み込んだ内容を事前に多く発言したことで、「しゃべりすぎだ」(政府関係者)と不安視する声もある。
このときも、本来ならばタテマエとしてボヤかしておくべき事前の協議や調整内容を大臣がしゃべってしまったことを不安視されているから、すでに去年の段階で、今回の炎上を予感させるボヤさわぎが起きていたということなのかもしれない。
「担当大臣としてこれだけのことをやってますよ」アピールが過ぎると、タテマエをタテマエとして成立させるための条件をつき崩すことになる、ということなのかも。
もう1つ、面白いのは、この「お願いベース(要請)」での働きかけ、いまにはじまったことではなく、むしろそれは日本の「伝統芸」として、ずっと昔から引き継がれてきたということ。
たとえば通産省による「行政指導」。
これに関して、国際政治学者のチャルマーズ・ジョンソンが、「通産省と日本の奇跡」の中で面白いことを言っている。
経済開発のやり方については、最小限のルールを決め、あとは市場の競争原理にまかせる米国型と、国が全体を細かく管理するソ連型の2つのパターンがあるが、日本のやり方は、そのどちらでもない。
政府は表だってルールを決めることも、国全体をしっかりコントロールすることもないが、官僚と企業の間の日々のコミュニケーションを通じて行われる「行政指導」によって、合理的かつ効果的に計画が遂行されるということ。
ソ連型の経済開発が、「計画合理性」の典型のように思われているけど、じつはその合理性はイデオロギーにもとづく合理性なのであって、効果的な計画の遂行という点では、「行政指導」を通じて日本型の経済開発の方が「計画合理性」にかなっていると主張する。
でも、そうした日本型の「計画合理性」が機能するためには条件があって、高度成長期にわき上がった経済ナショナリズムのような、すべてのステイクホルダーを包みこむ目標が存在していなければならない。
誰もが信じて疑わない大きな目標に下支えされていれば、この記事に書かれているような、「われわれは国民になんども協力(お願い)を申し出たのに、国民からは十分に理解を得られなかった。つまりこの結果責任は、政府だけが負うべきものではなく、部分的には国民の責任でもある」という言い訳も成り立つ。
じっさいに、オリンピックの招致機運を盛り上げようと、2012年に招致委員会から出されたメッセージは、まさしくすべてのステイクホルダーを包みこむ経済ナショナリズムそのものだった。
その当時もかなり「気色わるい」と感じられたメッセージだけど、いま読むと、「気色わるい」を飛びこえて、ほぼ意味不明なくらいに大仰な言葉がならんでいる。
でも、2008年のリーマンショック、2011年の東日本震災の甚大な影響を受けた日本の社会にとって、目的を持つ意味も分からず、勝とうという意志もなく、情熱を感じる意欲もなくなったという状況は、(すくなくとも一部の人たちには)とてもリアルに感じられたんだと思う。
だから、「ニッポン」に呼ぶオリンピックを、すべての人に夢と力をもたらすだけでなく、経済に力を与え、仕事をつくり出すものとして描きだし、経済ナショナリズムを煽ることができたんだと思う。
しかしこれが、「安心安全な五輪開催」と「(結果的に規制を通じた経済活動の私権制限につながる)コロナ対策」の両立ということになると、かつてのようにすべてのメンバーを包みこむ大きな目標にまとめあげることは不可能になる。
五輪の開催は夢と力をもたらすかもしれないけど、コロナ対策は経済の力を失わせ、仕事を奪うことになるから。
だとすれば、ウチとソト、ホンネとタテマエの使い分けを通じた計画の遂行を下支えする前提条件が崩れ去っているにもかかわらず、「お願いベース(要請)」という、かつての伝統芸で状況を乗り越えようとした戦略そのものが、すでにタテマエの成立をはばんでいる、ということになる。
時代が変わり、環境が変わり、ステイクホルダーが置かれた状況が刻々と変わる。
その中でしっかりと使い分けていくためには、状況をただしく判断し、誰にどう話を持っていき、誰に何を話し、何を語らないでおくのか、みたいなプロセスの中で、さまざまなスキルを動員しなければならない。
そんな風に考えてみると、ウチとソト、ホンネとタテマエの使い分けというのは、なかなかむずかしいものなんだなあと思う。