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中山みき研究ノート

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立教150年(1987年)、八島先生の名前で立風書房から刊行された「中山みき研究ノート」の全文を、順次公開していきます。
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2022年10月の記事一覧

中山みき研究ノート4-1 布教拡張と弾圧

中山みき研究ノート4-1 布教拡張と弾圧

明治2年正月から書き始められたおふでさきは、まず、屋敷の掃除ということを主題として、秀司の心得違いを諄々と論しています。以来、ともすれば拝み祈祷に流れてしまう人々の心を正しい方向に導き続け、秀司夫妻が亡くなり、転輪王講社が壊滅した明治15年には、その筆を納めておられます。 

この年の12月には地福寺との関係も切れてしまい、その後は再び警察の取締りが厳しくなって きました。蒸風呂、宿屋などは全て、

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中山みき研究ノート4-2 ひとの田に水を

中山みき研究ノート4-2 ひとの田に水を

明治16年の大きな事件として、雨乞いづとめが上げられます。『稿本教祖伝』には、

ここは現在の天理幼稚園の敷地内で、牛はぎ場とあるからには聖地といった趣ではなかったようです。

その後坤(西南)は現在の郡山詰所がある辺りでつとめられ、その後続いて乾(西北)、これは百年祭のバス乗降場の西側で、北大路の傍に神田神社がありますが、その社殿と鳥居との間の空き地で行なわれました。

その頃から「黒雲が東山の

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中山みき研究ノート4-3 17年3月のふし

中山みき研究ノート4-3 17年3月のふし

だんだんと大勢の人が話を聞き分け、参拝に来るようになると、弾圧もその激しさを増して来ました。明治17年3月の御苦労について『稿本教祖伝』では次のように記されています。

奈良監獄署のあった所は、現在、梅谷大教会となっています。教祖はそこから今の県庁の中を通って、興福寺のところの宿屋でお休みになっています。

明治17年頃になると、民権運動への圧迫が強くなります。各地で農民の困窮が激しくなり、鉄砲や

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中山みき研究ノート4-4 お屋敷以外のちば

中山みき研究ノート4-4 お屋敷以外のちば

この時代に、おつとめに関して、重要なことが伝えられています。

17年1月30日に、教祖が諸井国三郎講元に、遠州に於いておつとめをすることを許されている事実があるのです。山名大教会の『初代会長夫妻自伝』には次のように記されています。

この時の、「私が許すでない、神が許すのや」という言葉は、教祖は自らが神の社であるという立場をとっておられることを示しています。

31日に諸井国三郎は井筒梅次郎と同

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中山みき研究ノート4-5 教会公認運動

中山みき研究ノート4-5 教会公認運動

明治17、18年の頃には、お道が伸びるに従って、官憲の迫害も一層激しくなってきたことから、各地方には、何とかして合法的に人を集めることの出来る教会を設置しようという動きが出て来ます。

これを『稿本教祖伝』の記述に沿って見て行きましょう。 まず17年のこととして、

ので、

とあります。

京都の明誠組は、心学道話の組織でした。心学道話というのは、武士は武士らしく、農民は農民らしく、それぞれ分を

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中山みき研究ノート4-6 最後の御苦労

中山みき研究ノート4-6 最後の御苦労

やがて年が改まり、明治19(1886)年を迎えます。

2月18日(陰暦正月15日)。この日は大和では二の正月と言って神詣でをする風習がありました。

お屋敷から三里程南の外山にある心勇講(後の敷島大教会)から300人もの人達がお参りに来ました。これがお道で最初の団体参拝だとも言われています。

それまでも心勇講の白パッチと言われ、真白な揃いのパッチ(股引き)をはいて着物の尻をからげて歩く姿はとて

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中山みき研究ノート4-7 節から芽が出る

中山みき研究ノート4-7 節から芽が出る

教祖は、新暦3月1日に釈放されましたが、12日になって山中忠七と山田伊八郎が教祖の所にお詫びに行った話が、『教祖伝逸話篇』に出ています。この時、二人がご休息所に行くと、いつもは襖を開いて上段からお仕込み下さるのに、その日は襖がピッタリと閉まっていました。廊下から枕元の方に参上すると、教祖は目を閉じて眠っておられるようでした。 忠七が「神さん、神さん」と言ってお起こししたら、教祖は、

と仰せ下さっ

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中山みき研究ノート4-8 五ヶ条の請書

中山みき研究ノート4-8 五ヶ条の請書

さて、4月初旬に神道本局の人達に、大和まで来てくれと頼んでいたのですが、やっと重い腰を上げ、5月28・29の両日、神道管長代理が視察に来ることになりました。一行はまず、大神教会に着きました。神道大神教会の所属教師である真之亮が神道天理教会を作ったという形になっていたからです。

大神神社の鳥居を入って直ぐの所に神道大神教会があります。大神神社が国津神の神社であるのに対し、天津神を祀り、征服王朝であ

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中山みき研究ノート4-9 このまゝひいてしまうか

中山みき研究ノート4-9 このまゝひいてしまうか

こうして教祖の周りには人を寄せず、神道天理教会は寄って来た人に日本神話に基づく差別思想を教える、という状況の中で、新暦明治20(1887)年1月1日、教祖は風呂から上がられて、ふとよろめかれたと伝えられています。しかし、実は「ふと」などという状態ではありません。前年の秋の事をおひさは、

と伝えています。

1月4日。この時には教祖の体が冷たくなり、息が止まるという身上になられました。そこで、ご休

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中山みき研究ノート4-10 神の社の心定め

中山みき研究ノート4-10 神の社の心定め

いよいよ、明治20年陰暦正月26日のおつとめになります。しかし、これは身上平癒のおつとめではありません。「おつとめをしたらお身上よろしくなりましょうか」という問いに対して、教祖は三度も「あかん」とか「ならんならん、むつかしいことをいいかける」といった言葉で、おつとめをやってもこの身上は治らない、という意味のことを言っておられます。これも兵神版のおさしづの中にははっきりと書き残されています。

本部

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中山みき研究ノート あとがき

中山みき研究ノート あとがき

本書は、教祖百年祭(1986年1月26日~2月18日)の期間中、櫟本分署跡保存会(天理市)の有志を対象に、教祖伝の連続講座を開いたときの口述筆記を基に編纂したものです。

叙述が教内向けになっているのはそのためで、教外の読者にとっては、すぐには理解し難い点が諸所にあると思います。それは、すでに教内で人口に膾炙していると思われる個所の説明を簡略化するか、もしくは省略して話を進めた場合があるからで、後

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